大井神社  (右京区嵯峨天竜寺造路町)

京都・寺社

 渡月橋北詰のいつも観光客で混雑している歩道にポツンと建つ鳥居。気に留める人もほとんどいないが、これが大井神社の参道前の鳥居。ご近所の人達が抜け道によく利用するらしい細い参道を少し北に進むと、赤い鳥居が見える。

 本殿前の駒札によれば

 御祭神は「宇賀霊神 (うがみたまがみ)」
 創立年月は未詳ながら、延喜式内社であった。『延喜式神名帳』(927年) や『三代実録』貞観十八年 (876年) 七月二十一日の条には「山代大堰神 並従五位下」の記載がある。
 明治10年3月26日に村社に列格される。

 祭神である「宇賀霊神」は、『古事記』では「宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ)」、『日本書紀』では「倉稲魂命 (うかのみたまのみこと)」と表記される神で、古くから穀物の女神とされており、農耕に関わりある神と考えられる。
 しかし元々の祭神は、「大綾津日神(おおあやつひのかみ)」大直日神(おほなほひのかみ)」「神直日神(かみなほひのかみ)」の三神であったとも言われている。こちらは「厄除けの守護神」として信仰される神で、駒札にある「秦氏の葛野大堰 (かどのおおい) 造営 (八世紀初頃) と密接な関係があろう」との説明に従えば、この三神が祀られていたことも有り得そうだ。「堰神社」「大堰神社」あるいは「大橋神社」といった古い呼称も、それに由来しているのかもしれない。

本殿

 『日本三代実録』には「貞観12 (870) 年、葛野鋳銭所に近い宗像・櫟谷・清水・・小社の五神に対して賀茂御祖別雷両社・松尾社・稲荷社・石清水社などとともに新鋳銭を奉納した」という内容の記述があるが、「堰」が「大井神社」にあたるとされているのだろう。
 江戸時代に入り、角倉了以が丹波から嵐山までの物資輸送の舟運のために大堰川 (保津川) 開削工事を行うと、大井神社は渡月橋を挟んで西南に位置する「櫟谷宗像神社」とともに水難の守護神・商売繁盛の神としても篤く信仰されるようになったのではないか。

本殿左側の小社

 現在の本殿は野宮神社の旧社殿を移築したもので、覆屋の内に古い流造の社殿がある。また本殿向かって左側に小さな祠があるが、こちらの詳細は不明。

<参考資料>
・ フリー百科事典  『ウィキペディア(Wikipedia)』
・ 経済雑誌社 編 『国史大系』 第4巻 日本三代実録,経済雑誌社,明治30. 国立国会図書館デジタルコレクション