熊野若王子神社 (左京区若王子町)

京都・寺社

 「京都三熊野社」 の一つとして知られる「熊野若王子 (にゃくおうじ) 神社」は、東山若王子山の西麓にある。白川通の市バス「南禅寺・永観堂道」バス停からは、徒歩10分ほどで、禅林寺 (永観堂) 寺域の北側に位置する。
 すぐ西側には琵琶湖疏水分線が流れ、参拝者は流れに架かる「若王子橋」を渡って神社に詣でることになる。観光コース「哲学の道」は、この橋から北の「銀閣寺橋」までの散策路を指し、昨今は多くの観光客で賑わっている。しかし橋を渡って神社に参詣する人はそれほど多くない。 

【御祭神】
 四柱の神:国常立神 (クニトコタチノミコト), 伊佐那岐神 (イザナギノミコト), 伊佐那美神 (イザナミノミコト), 天照大神 (アマテラスオオミカミ)
 社名は、御祭神「天照大神」の別号「若一王子 (ニャクイチ オウジ)」にちなみ「若王子 (ニャクオウジ)」。「京 洛東 那智」とも称され、洛中熊野三山の那智大社を表す。また御神紋は、初代天皇の「神武天皇」の道案内をしたとされる三本足の導きのカラス「八咫烏(やたがらす)」が「梛 (なぎ) の葉」をくわえた形象。

【歴 史】
 寺伝によれば、永暦元 (1160) 年 後白河法皇が紀州熊野権現を禅林寺 (永観堂) の守護神として勧請し、祈願所とした「正東山 (しょうとうさん) 若王子」の鎮守社が始まりという。また、平安前期の真言宗僧 真紹 (しんじょう, しんしょう) が、禅林寺 (永観堂) を開山した際に、守護神社として創祀したともいう。神仏習合により「若王寺」とも呼ばれた。
 鎌倉時代 武家の信仰を集め、特に源頼朝は『般若心経』を奉納するなど篤く信仰したとのこと。
 寛正6 (1465) 年 3月 室町時代には花見の名所としても知られるようになり、足利義政は当社で花見の宴を催している。
 応仁・文明の乱 (1467-1477) により社殿荒廃。
 安土・桃山時代 豊臣秀吉により社殿及び境内が整備されて再興。
 江戸時代 聖護院を中心とする天台系本山派院家「正東山若王子乗々院(じょうじょういん)」の鎮守を兼ねるようになり、仏像も祀られるようになった。また熊野詣の始発地でもあったことから、『東西歴覧記』に「具足屋甚崇此社」とあるように全国の具足商人の崇敬を集めた。
 明治元 (1868) 年 神仏分離令により神社となる。また、槇本稲荷神社が豊国神社に遷され、「地仏堂」に御神体として祀られていた「薬師如来坐像」は、神官の所有からコレクターの手に渡り、現在は国宝として奈良国立博物館に所有されている。
 明治期に四社 (本宮・新宮・那智・若宮) が修築される。
 昭和54 (1979) 年 社殿がひとつの社に複数の神を祀る「一社相殿 (いっしゃあいどの) 」に改築される。

【境 内】
<御神木>
 鳥居前に架かる石橋の右側には、御神木「梛の木」がある。江戸時代前期の明暦2 (1656) 年に吉良家より石橋が寄進された折に、紀州熊野の苗木が植樹されたという。京都府内最古で樹齢400年余りと伝わる御神木の「梛の木」は、今は太い幹だけが残るが、いかにも古木としての風格がある。また左側にはそれより若い (それでも樹齢100年以上という) 梛の木が育つ。
 かつて紀州熊野三山詣や伊勢参宮の際には、罪穢れを「なぎ祓い清める御守り」としてその葉が用いられた。現在では、すべての苦難を “なぎ倒す" ということから「梛守り」が授与されている。

 

<本殿・拝殿>

拝殿・本殿

 かつては南面して四社殿 (本宮・新宮・那智・若宮) があったが、1979年に改築されて現在は一社相殿となっている。拝殿前、向かって右側には「阿形」の「獅子」が、そして左には「吽行」の角のある「狛犬」が神殿を護っている。また「獅子」のすぐ後に置かれている「宝珠」は、かつて境内にあった「地仏堂」の屋根に付けられていたもの。

 拝殿の扁額には「熊野大権現」と記されているが、よく見れば御神紋にあるカラスが文字の中に何羽も潜んでいる。人によりその数は異なるが、そこには「いずれも正しく、物事は色々な視点から見なければならない」という教えが込められているという。

 

恵比須社

<夷川恵比須社 (末社)>
 元は夷川通に祀られていた「恵比須神像」が、応仁・文明の乱を機に当社に遷座。
 宝暦12 (1762) 年刊の 『京町鑑』 には、地名「夷川通」の名の由来について
 「古老云、往古西洞院中御門 今いふ椹木町に北山の下流あらはれ、又此辺に蛭子社有しゆへ恵比須川と号し、其後次第に人家建つづきしゆへに通の名とす。應仁亂に此社亡滅し川も埋れ侍りしが不思議に蛭子の尊像残り今六角堂の西隣不動院といへる寺に傅はり有中古より蛭子を夷に書誤れり」
 と記されている。

 つまり「夷川」とは「蛭子社 えびすのやしろ」が昔あった川という意味で、「蛭子」が後に書き誤られて「夷」となったということになる。その「蛭子尊像」が紆余曲折を経て現在は当社にあるらしい。寄木造等身大の坐像は、右手に竿、左手に大きな鯛 (?) を抱え、口を開けて笑っているようにも見えるが、少しばかり厳つい表情のようでもある。神像前にはやはり「獅子・狛犬」。

 

<金剛地蔵菩薩>
 「夷川恵比須社」の西側には、まだ建立されてからそれほど経ていないと思われる地蔵菩薩石像がある。「金剛地蔵菩薩」と刻まれた地蔵尊は、微笑んでいるような優しいお顔で、右手に錫杖、左手には宝珠を持つ。いかにも神仏習合の古い歴史を持つ神社らしい。

 

 

<若王子なで牛>
 「夷川恵比須社」の石段前に、石造りの大きな牛「若王子なで牛」が安置されている。ご利益は、「病気やケガを治す」「学業祈願成就」。天神さま (菅原道真公) は祀られていないが、天神信仰はここでも健在!?

 

 

<旧若王子橋の高欄>
 本殿 (拝殿) から真っ直ぐ南に参道を進むと、もう一つの石橋がある。その橋の手すりは、もとは大正9 (1920) 年6月に架けられた「若王子橋」の高欄で、平成5 (1993) 年3月に現在の橋に改築されて後、神社境内に移設されたもの。苔むしてなかなか味わい深い趣がある。

 

 

<花梅「思いのまま」>
 手水舎の傍にある「輪違い (りんちがい)」の花梅の木「思いのまま」。野梅系の八重咲で、白と桃色、または絞りと一本で咲き分ける品種。その名「思いのまま」の由来は、育てる人の思うように咲くのではなく、梅が自分の「思いのまま」に咲き分けることにあるらしい。「自然は人間の思うようにはならない」そんな現代の人間がつい忘れがちになってしまう「自然の理」を思い起こさせてくれるステキな木。

 

【境 外】
 「熊野若王子神社」の境内はさほど広くはないが、その背後の若王子山を含む境外には、熊野詣の始発地であったという歴史を偲ばせる場所がいくつもある。

陽光桜

<桜花苑>
 社務所の東側にある石段を上った裏山に、陽光桜が60本ほど植樹された「桜花苑」がある。「平和への願いをこめた陽光桜」が咲く裏山からは、西山の山々を望める。足利義政が花見の宴を催した頃も、境内や山は桜色に染まってきれいだったのだろうな。

 

<如意輪乃滝・天龍白蛇辨財天>

 「桜花苑」への石段を通り過ぎてさらに東に進むと、民家の先に朱色の鳥居が見え、その背後には「天龍白蛇辨財天」を祀るお社がある。その奥、山の岩肌には小さな滝「如意輪乃滝」があり、結界が設けられている。よく見れば滝の上方には石像が… どうやら不動明王?かつてこの滝は「三の滝」とも呼ばれていたようだ。

 

 

石垣の上には「天照神力五大力王・天照神力弁財天」の二柱の神名、「白蜈蚣大神・融通大神・早馬大神・火伏大神・弁天姫の命、大山稲荷大明神、古天白龍大神、大山祇大神」の八柱の神名が刻まれた二つの碑が建てられ祭祀されている。どのような神様なのかよくわからないが、例えば「白蜈蚣大神」の「蜈蚣」は “ムカデ" で、"ムカデ" は仏法を守護する毘沙門天の使い。また「大山祇大神 (オオヤマツミノオオカミ)」(「大山津見神」とも表記) は、記紀神話では山を支配する神とされ、「融通大神」は神道において「大山祇神」はじめ様々な神様の霊験やご利益を広く様々な人々に「融通する」役割を担う神様という。… 正に日本には八百万の神々がいらっしゃる。

案内板

 大正12 (1923) 年に発行された 『熊野若王子神社概誌』 によれば、熊野若王子神社には末社六社があり、現在境内にある「夷川神社」以外に「三解神社」(祭神:宮中荒霊神)、「瀧宮神社」(祭神:瑞津比賣神)、「山神神社」(祭神:安閑天皇・久々能知神・大山祇神)、「野邑神社」(祭神:産霊神)、「山上神社」(祭神:倉稲魂神・豊受比賣神、大物主神)の五社があったようだ。さらに熊野那智社に準えて、山中に三つの滝が造られたとも。

 社務所近くにある案内板によれば、「桜花苑」登り口の右手にある急勾配の石段と山道を15分程登った最も高い場所に「千手乃滝」があるらしい。そこには不動明王が祀られ「稲荷社」がある。参道を下る途中には、「瀧宮神社・山神社」そして「本間龍神・三解社」がある。『概誌』の五社との対応関係はよくわからないが、今も山岳信仰が色濃く残る山と思われる。

新島襄墓所参道の道標

【新島襄の墓】
 「若王子橋」の東側に「同志社創立者 新島襄先生墓所参道」と刻まれた道標がある。「熊野若王子神社」の南側の道に沿って行くと「新島襄・八重の墓」と書かれた案内板がある。墓地は25分ほど山道を登った若王子山山頂にあり、現在は「市営墓地」となっている。その一角に同志社が管理する「同志社墓地」があり、同志社英学校 (同志社大学の前身) の創立者 新島襄をはじめ、妻の八重や山本覚馬、徳富猪一郎、同志社関係の宣教師たちが眠っている。

 

<参考資料>

地蔵堂

・ 熊野若王子神社 website, 境内駒札・案内板
・ 『熊野若王子神社概誌』 大正12 (1923)年6月15日発行  村社熊野若王子神社社務所発行
・ 『南禅寺周辺エリア:禅林寺(永観堂)・琵琶湖疏水・別邸群』 京都市
・ 『熊野若王子神社』 (「京都風光」website)    ・ 改訂新版 世界大百科事典 (コトバンク)  
・ 国書データベース 『京町鑑』 (一橋大学附属図書館所蔵)     ・ e国宝 website