熊野信仰と「京都三熊野神社」(1)
江戸時代後期の戯作者 十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』や民謡『伊勢音頭』にある「伊勢へ七度 (ななたび) 熊野へ三度 (さんど) 愛宕様へは月参り」という有名な文句は、信仰心の深さや信心深さに限りは無いことの喩え。古くから「よみがえりの地」として信仰されてきた熊野には、「蟻の熊野詣(参り)」と表されるように、貴賎や老若男女問わず多くの参詣者が列をなしたという。京都にはその熊野三山を勧請した神社がある。
<熊野信仰:始まり>
伊勢、出雲とともに日本の 「三大聖地」 と言われる熊野。今では 「熊野三山」 と呼ばれる熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社だが、元は各々独自の神祀りの場であり、共通する神話や伝承も殆ど無いという。すなわち熊野川を御神体とする 「本宮」 の主神は「家津御子大神 (けつみこおおかみ)」。神倉山のゴトビキ岩を神の依代とする 「新宮」 の主神は、水玉の勢いを示すという「熊野速玉大神 (くまのはやたまおおかみ)」。そして 「那智」 は、滝の聖水の持つ生産力への信仰が根源の「熊野夫須美 (産霊) 大神 (くまのふすみおおかみ)」を主神として祀る。ただし、これら三主神は日本の正史『古事記』『日本書紀』に登場する神々とは異なる。
また古来よりルーツの異なる自然神信仰があった熊野には、神道や仏教伝来以前より山岳修行者が分け入り集団生活をするなど、独自の聖域が形成されていたようだ。
<仏教伝来と神仏習合>

奈良時代初期 (720年, 養老4年) に編纂された『日本書紀』には、神武東征軍がヤマトに向かう途中で熊野の山岳地帯越えに苦慮していた時に、熊野の神の使いとされる八咫烏が一行を導いたとある。ヤマト政権の確立とともに、熊野三山の主祭神も 「本宮」 の「素戔嗚尊」、「新宮」 は「伊弉諾尊」、そして「那智」 は「伊奘冉尊」と別名を付されるようになったのかもしれない。
6世紀に百済より伝来した仏教を、古代王権が鎮護国家の思想として取り入れるようになると、人々は「神」と「仏」を同等のものとして受け入れて信仰するようになった (神仏習合観念)。それは仏教の普及とともに、神の本来の境地 (本地) は仏と同じであり、人々を救済・教化するために神に姿を変えて現れた (垂迹) とする 「本地垂迹思想」 へと変化。こうした影響を受けて三山の結びつきも深まり、同じ12柱の神々 (すなわち仏) が祀られるようになると、神々は 「熊野権現」 (権=仮に, 現=現れた) と総称されるようになった。
<熊野御幸:末法思想と浄土信仰>

仏教には「釈迦入滅後に仏の教えが薄れて人々に救済が及ばなくなる」とされる「末法思想」の歴史観があるが、日本でもすでに平安初期に天台宗祖 最澄が説いている。平安貴族の間では、永承7 (1052) 年を末法の第1年とする考えが流布し始め、末法の世に対する不安感から極楽浄土への往生を願う信仰も高まっていった。
こうした情勢の中、神仏習合により阿弥陀如来や観音菩薩の浄土信仰と融合した
「熊野三山 」 (本宮=西方極楽浄土・新宮=東方浄瑠璃浄土・那智=南方補陀落浄土) は、皇室の祖先神話ゆかりの聖地でもあることから、法皇や上皇の御幸の地となっていく。始まりは延喜7 (907) 年の宇多上皇、その80年後の永延元 (987) 年には花山法皇が御幸している。
<院政期と熊野御幸>
花山院の時から約100年後の寛治4 (1090) 年、白河上皇の最初の熊野御幸が行われる。譲位後に院政を敷いて「鳥羽離宮 (城南離宮)」を造営した白河上皇は、この地を熊野詣の出発点として生涯に9回 (12回とも) の熊野御幸を実施。以降恒例行事のようになった法皇 (上皇) の熊野御幸は、鎌倉期 弘安4 (1281)年 の亀山上皇を最後に終結。最も盛んであったのは、院政期の白河上皇から後鳥羽上皇までの約100年間で、中でも後白河上皇は歴代最多の34回。
白河・鳥羽両上皇の時代は、摂関政治が衰え始める一方で、院政の中心となった上皇には政治の権力や財力、武力が集中。権力者としての孤独と「来世での安泰」を希求する気持ちが熊野詣へと向かわせたのかもしれない。しかしその院政も、武士の台頭が著しくなる平安末期には決して安泰とは言えなくなる。
<参考資料>
・ 熊野本宮大社 website ・ 『熊野信仰』 新熊野神社 website
・ 『熊野信仰とは何か』 (上)(中)(下) 大河内智之 著 (和歌山県立博物館 博物館ニュース コラム)
・ 『熊野三山』 フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』