祇園祭の “ハテナ?”:(1) 円融天皇と宮本組

7月1日の「吉符入り」で始まった 「祇園祭」 は、31日の八坂神社境内「疫 (えき) 神社」での夏越祭をもって1ヶ月にわたる行事が終了する。現在では、観光的には山鉾巡行があたかも「祇園祭」のハイライトであるかのように取り上げられ、 「祇園御霊会 (祇園会)」 の本来的意味や 「神輿渡御」 については多く語られない。昨年テレビ番組で、祭礼に先立ち「圓融天皇陵」に参拝される「宮本組」なる「講」の存在を知り、もう少しきちんと「祇園祭」の歴史について知りたいと思った。
【清々講社・宮本組】

<清々講社>
明治5 (1872) 年の寄町制度廃止に伴い、山鉾町は財政的危機に直面。そのため明治8 (1875) 年、神社奉賛組織として発足したのが「清々講社」。八坂神社の氏子区域全域 (旧25学区) からなる町衆組織で、山鉾巡行や神輿渡御の経費を援助する協賛組織として募金活動などに当たった。当時廃止の危機にあった山鉾町も、これにより救済されたという。そして「宮本組」は、「清々講社」の第一号に位置付けられている講社。
<宮本組>
「宮本組」とは、八坂神社の氏子区域のうち、神社お膝元である祇園町の氏子による組織。“お宮の本に住まう氏子" だから「宮本組」と名付けられたとも言われる。創立時期については定かではないが、花街が形成され、有力な茶屋衆が生まれた江戸時代初期以来、「祇園祭」のみならず一年を通して神社に起こるさまざまな問題の解決に協力し奉仕していると聞く。

「祇園祭」では、神職が行う神事以外の運営全般に関して補佐。氏子を代表して神輿洗神事や神事済奉告祭を主宰するほか、神幸祭・還幸祭では、円融天皇の勅命の由緒を記した「勅板」を奉じて行列を先導し、矛、盾、弓、矢、剣、箏、琴の六種の御神宝を捧持して神輿に供奉する中核的な役割を担う。これらの御神宝は、承応3 (1654) 年に、本殿再建とともに江戸幕府四代将軍徳川家綱により奉納されたという。重文指定のものもあるため、現在は写しが使用されているが、特に許された者以外は触れることができない神器とされている。また、御神宝の奉事者は毎年7月1日の「吉符入り」の夜、籤引きで決められるようだ。
<円融天皇と祇園祭>
「祇園祭」 の起源は、平安時代の疫神怨霊を鎮めるための祭礼「御霊会(ごりょうえ)」にあり、もとは「祇園御霊会」「祇園会 (ぎおんえ)」と称されていた。平安中期の天禄元 (970) 年、円融天皇の時代になって「祇園御霊会」は毎年6月7日に神輿を迎えて神事遂行の後、14日にこれを送る毎年の行事となった。また神事にあたっては朝廷や院より馬長 (うまおさ) や田楽、獅子などが上納された。

また天延2 (974) 年には、円融天皇により「大政所御旅所」(現 下京区烏丸高辻上る大政所町) が開かれ、勅命による神輿渡御が始まったことから、この頃が「祇園祭」の創始の時期とされている。なお、「大政所御旅所」に関しては、この地に住んでいた秦助正という人物が神託を受けて、土地を寄進したという伝承が残っている。現在も還幸祭の時には、「大政所御旅所」の跡に建つ祠の前に神輿が下されて神職が玉串を奉納する。因みに現在の「四条御旅所」は、天正19 (1591) 年に豊臣秀吉が移したもの。
宮本組が捧持する円融天皇の 「勅板」 には、「大政所御旅所を賜り、この地に毎年神幸すること」との勅令が記されているという。すなわち「勅板」は「祇園祭」が勅命によって行われる祭礼であることの証としてとても大切なもの。宮本組の方達が、右京区にある円融天皇陵に祭礼の無事を祈願し詣でるのは、こうした理由からのようだ。
<参考資料>
・八坂神社 website ・宮本組 website
・ 『祇園祭 祭礼篇』 京都市 文化史28
・ 『祇園祭の原点:「神仏習合」が結ぶ疫病退散の祈り』 八坂神社 野村明義宮司インタビュー (ハンケイ 京都新聞)
・ 『知られざる祇園祭:神宝奉持列』 by 五所光一郎
・ 『祇園祭 清々講社』 (京に癒やされ) ClubFame & 京都CF!