”お盆”とは? (3)近き祖先そしてはるか過去世の祖先への感謝と供養
日本で初めて 「盂蘭盆会」 が催されたと考えられるのは、推古天皇14 (606) 年。『日本書紀』に「是の年より初めて寺毎に、四月の八日、七月十五日に斎を設ける」とあり、これが日本における灌仏会と盂蘭盆会の始まりとされている。ただ 「盂蘭盆会」 なる語の初出は、斉明天皇3 (657) 年の時で、「辛丑 (7月15日) に須弥山の像を飛鳥寺の西に作り、また盂蘭盆会を設ける」とある。さらに斉明天皇5 (659) 年 7月15日には「京内諸寺に盂蘭盆経を講させ、七世の父母を報いさせる。」とも。その後、聖武天皇の天平5 (733) 年7月には、大膳職に盂蘭盆供養をさせ、以降は宮中恒例の仏事となり毎年7月14日に開催。盂蘭盆供養、盂蘭盆供などと称されたようだ。
では、仏教が伝来する以前、日本人は「死」をどのように捉えていたのだろうか。日本には “ホトケ” より前に “八百万の神々" がいたわけで、自然崇拝のうちに「死」というものも考えられていたように思う。現在の日本では「お盆」イコール「仏教行事」という感が強いが、神道ではどう捉えられているのだろう。
日本民俗学の創始者とされる柳田國男は、著書 『先祖の話』 において「人は死ねば子孫の供養や祀りをうけて祖霊へと昇華し、山々から家の繁栄を見守り、盆や正月にのみ交流する」と述べている。また「日本人の死後の観念、即ち霊は永久に、この国土のうちに留まって、そう遠方へ行ってしまわないという信仰が、恐らくは、世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられている」とも。
神道では、人が亡くなるとその魂 (直毘 “なおび" とも)は身体より抜け出るとされる。そしてその魂は、「和霊 (にぎみまた)」「荒魂 (あらみたま)」に分かれ、さらに「和魂」は「幸魂 (さきみたま)」と「奇魂 (くすみたま)」に分かれる。「幸魂」は家庭の霊璽 (れいじ)」にやどり、「奇魂」は高天原、「荒魂」は墓所にいる。この三つの魂が各家々に戻ってくるのがお盆の期間だという。
柳田は、歳月の経過によって死の穢れが浄化されて「カミ」となった御霊 (ミタマ) は、「ご先祖さま」として子孫の生活を見守り、地域の「氏神」ともなっていくと説く。考えてみれば、お墓の前で手を合わせる時、懐かしさや悲しみを感じるのと同時に「元気でいますよ。いつも見守ってくれてありがとう。これからもよろしくお願いします。」と心の中で呟いている自分もいる。古来より続いてきた「祖先崇拝」は、今もこの国にはしっかり根付いていると思う。
2013年、辛嶋静志氏は、「盂蘭盆」の語源に七つ目の新説を発表した。
同氏は 『「盂蘭盆」の本当の意味』 と題した論文の中で、「釈尊の時代から紀元後3世紀頃までは経典は概ね口語で伝承されていた。口語原典から訳された古い漢訳経典の難語・音写語を、梵語だけの知識で解釈するのは誤りである。」として、玄応が主張した伝統的な解釈「倒懸」説を否定。その上で、「盂蘭」はサンスクリット語 “odana"(ご飯)の口語形 “olan(a)" の音写ではないかと主張。また「盆」は、「盂蘭盆経」中に見られる「応奉盂蘭盆」「以百味飲食安盂蘭盆中」「作盂蘭盆施仏及僧」の表現から、容器としての通常の意味の「お盆」に他ならないと述べている。すなわち、「盂蘭盆」は「ご飯をのせた盆」の意味であるという。
論文には「千四百年間の誤解を解く」の副題が付くが、そんな「大発見」をよそに、日本では各地方で古来連綿と受け継がれてきた習俗の「ミタマ祀り」と、新たに伝来した仏教が習合することで形成された独自の行事「お盆」を今も当たり前のこととして行っている。
江戸時代前期、幕府はキリシタン信仰を禁止するため、全国の民衆をいずれかの寺院の檀家として登録させる 「寺請制度」 を設けた。そのため民衆は特定の寺院の檀家となり、各戸には仏壇が置かれて法要の際には僧侶を招いて布施をするといった慣習が普及していった。この「寺請制度」は「宗門改め」にも利用され、やがて現在の戸籍に近い 「宗門人別改帳」 の作成につながる。また旅行や転居の際には、寺院の「寺請証文」が必要となったため、次第に仏教 (寺院) は江戸幕府の体制に取り込まれるようになって経済基盤も安定していった。しかしその一方、寺院は次第に教化活動を怠り、さらには檀家に必要以上の布施を強要するなどして俗化・堕落していった側面も見逃せない。
ところが明治維新とともに事態は一転。天皇を中心とする国家体制の実現のため、早々に 「神仏分離令 (神仏判然令) 」 が発布された。そして各地の寺院は取り壊され、今では貴重とされる仏像・仏画なども次々と破壊されていった。
こうした歴史の流れを見ていくと、結局のところ国家体制の在り方によって人心は “カミ” と “ホトケ" の間を行きつ戻りつせざるを得なかったのかもしれない。そして最後にたどり着いたのが日本古来の 「神仏習合」。田の神さんや山の神さん、お地蔵さん、観音さんに道祖神と、私達はそれぞれに等しくお参りし手を合わせる。
京都五山送り火で「鳥居形」を見るたびに思う。送り火で焚かれる護摩木はまず麓の寺院で供養され、山の上で鳥居となって燃えていく。それは「お盆」を親類縁者とともに過ごした「ミタマ」が、鄭重に送り出されて「カミ」の国へと戻っていく風景にも見える。
<参考資料>
・ 『お盆雑考』 宮坂 宥洪 著 (「現代密教」 第32号)
・ 『「盂蘭盆」考』 赤松 孝章 著 (高松大学紀要 33 -11, 2000-02-25, 高松大学)
・ 『「盂蘭盆」の本当の意味:千四百年間の誤解を解く』 辛嶋静志 著 (大法輪, 2013)
・『神社ものしり事典』 第7章 「先祖のまつり 」 福島県神社庁