あだし野に無常の灯り揺れる夕
【化野 (あだしの)】
京都 奥嵯峨の小倉山東北麓の二尊院から化野念仏寺に至る一帯を 「化野 (あだしの)」
と呼ぶ。平安京初期、屍の持つ『穢れ』が忌み嫌われたことや人口が増えつつあった都を清浄に保つため、京内における埋葬が禁じられて葬送の地は都の外へと押しやられた。また造墓は身分の高い者にのみ許可され、火葬も費用がかかることから、貧しい庶民は亡骸を野ざらしにする風葬 (野葬・鳥葬) をせざるを得なかった。「はかない、虚しい」という意味を持つ「あだし」の野辺 (=埋葬地) は、まさにその風葬の地だった。
平安時代より歌枕「化野の露、鳥辺野の煙」は人生の無常を表す言葉として使われており、藤原俊成に和歌を師事した藤原良經は次の歌を残している。
人の世は 思へばなべて あだしのの よもぎがもとの ひとつ白露 (秋篠月清集)
また鎌倉末期から南北朝時代にかけての随筆家 兼好法師は、『徒然草』で以下のように記している。
あだし野の露消ゆる時なく、鳥辺山の烟立ちも去らでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからむ。(第七段)
【あだし野念仏寺】

正式名「華西山 東漸院 (かさいざんとうぜんいん) 念仏寺」が、通称名 「あだし野念仏寺」 として知られるのは、この寺院が「あだし野」の往古の歴史を物語る場所だからだろう。
平安初期の弘仁年間 (810-824)のこと。空海が風葬でこの地に野ざらしになっていた遺骸を埋葬・供養するため、小倉山寄りを金剛界、曼荼羅山寄りを胎蔵界に見立てて千体の石仏を埋めたという。そしてその真ん中を流れる 「曼荼羅川」 の河原に、五智如来の石仏を祀り一宇を建立して「五智山如来寺」と称したのが 「あだし野念仏寺」 の始まりとされる。鎌倉時代には浄土宗開祖 法然が当地に念仏道場を開き、多くの念仏衆が集まり真言宗から浄土宗へと宗旨替え。寺号も「念仏寺」と改められた。
【千灯供養の始まり】
こうした歴史を持つ「あだし野念仏寺」で 「千灯供養」 が始まるようになったのは、明治になってからのこと。
明治37年、岡山の宗教奉仕団体 福田海 (ふくでんかい)の開祖・中山通幽師が中心となり、地元の人々の協力を得て「あだし野」山野に散乱埋没していた多くの無縁仏・石塔を掘り出し集める作業が行われた。その数八千余り。石仏・石塔とともに発掘された壺や古銭などの時代考証から、その時代は平安から江戸時代にまで亘るという。
念仏寺の境内に集め置かれた石仏・石塔は、中心に祀られる十三重塔と阿弥陀如来坐像を囲むように配置され、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえられている。また、「あだし野」の風景が、空也上人の地蔵和讃にある「みどり児が河原で一つ二つと石を積み廻向の塔を作る」有様を想わせることから、「西院 (さい) の河原」と呼ばれるようになったという。
やがて地蔵盆の時に地元の人々がろうそくをお供えし供養していたのが「千灯供養」として定着し、いつしか「五山送り火 (鳥居形)」とともに奥嵯峨の夏の風物詩となった。コロナ禍で2020年の開催が中止されてしばらく休止の時期もあったが、2023年に4年ぶりに再開。かつては地蔵盆の8月23日・24日に合わせて行われていたが、再開後は8月最終の土・日曜日の開催に変更された。
【2025年8月30日 久しぶりの千灯供養】


千灯供養の受付は午後5寺30分開始。午後6時から読経と燈明が開始される。
まだ暑さの残る奥嵯峨の道を、法師ゼミの声を聞きながら念仏寺に向かう。日の入りには少し早く、境内もまだ明るい。提灯の灯された石段を上り、まずは山門近くの釈迦・阿弥陀の二尊石仏を拝する。鎌倉時代の造仏だが、苔むし風化した姿が参道を行く人々を優しく迎えてくれているようで心が和む。拝観受付で和蝋燭を受け取ると、「西院之河原」の東側へと順路が続く。午後6時を少し過ぎた頃で、お世話係の人たちが蝋燭に火を灯し始めていた。すでに多くの参拝者の人々が「西院之河原」の入り口で待っている。最近はアマチュアカメラマンの人々が増え、南側石垣近くは混雑気味。

御本尊に参拝するため本堂に向かうと、「西院之河原」に入るのを待つ人達の列が水子地蔵尊の祠付近から続いていた。「念仏寺」の本堂へは上がることはできないが、いつも扉は開けられているので拝観できる。中央に坐すのが、御本尊の阿弥陀如来坐像 (伝 鎌倉時代の湛慶 (運慶の嫡男) 作)。そして向かって左側に十一面観音菩薩、右には阿弥陀如来半跏像。お堂の中は照明があるので、普段よりも仏像がよく拝観できる。ただ、この日は十一面観音菩薩の前には大きな掛軸があったので、観音像は拝観できなかった。

「西院之河原」への入り口は、地蔵堂の北側にあり鐘楼の下を潜っていく。地蔵堂では、僧侶の方が供養の読経を続けておられ、気持ちが引き締まる。いつしか夕闇に包まれた「西院之河原」では、夥しい数の石仏に供えられた蝋燭の赤い炎が、あちらでもこちらでもゆらゆらと揺れて独特の雰囲気になる。「ご縁を想い、ろうそくをお供え、掌を合わせてください」という念仏寺の思いが、暗くなった夜空を仄かに明るく照らす供養だった。
あだし野の 無縁仏に ともる灯や いつか我が身も 野辺の白露 (畦の花)
【愛宕古道街道灯し】
「愛宕古道街道灯し(あたごふるみちかいどうとぼし)」 は、化野念仏寺の千灯供養に日程を合わせて平成7 (1995) 年)から始まった催し (主催:嵯峨野保勝会) で、今年30周年を迎えた。千灯供養に訪れる人々を迎えるためと、地蔵盆を盛り上げるために、古い町並みの残る街道沿いに手作りの小さな行灯を灯したのが始まりという。やがて地元の小・中学生や嵯峨美術大学・嵯峨美術短期大学の学生なども加わり、年々賑やかになっている。

清凉寺 (嵯峨釈迦堂) を起点として愛宕神社一の鳥居までの街道のあちらこちらに、大小さまざまな意匠を凝らした800基ほどの行灯が設置される。30日午後6時頃に点灯式。念仏寺で授かった火種を、地元の子どもたちが一の鳥居まで運んで松明に火が灯される。道中では、「太秦ひょっとこ踊りの会」による愉快なひょっとこ踊りが披露され、鳥居では「鳴滝太鼓」が演奏される。太鼓の響きは念仏寺まで聞こえてくる。
午後6時半を過ぎた頃には、念仏寺前の駐車場に設けられた会場で「盆踊り」も始まった。「あだし野」は正に「聖」と「俗」、「あの世」と「この世」の境目か?

すっかり暗くなった奥嵯峨の夜空には、きれいな月、星も瞬いている。盆踊りの賑わいを耳にしながら、心温まる行灯に足元を照らされて帰路につく。大覚寺方面と二尊院方面の分かれ道、三叉路に祀られる 八体地蔵さん も、今夜は提灯に明るく照らされて「気をつけてお帰り」と言ってくれているよう。すれ違った親子連れは、どうやら盆踊りに向かう途中らしい。清凉寺はもう閉門されていたが、山門前の大きな行灯が明々と 「愛宕古道」 への入り口を案内していた。
<参考資料>
・ あだし野念仏寺 website
・「愛宕古道街道灯し 2025」 嵯峨野保勝会 website
・ JAPAN GEOGRAPHIC 岡山県岡山市北区 福田海本部
・『方丈記 徒然草』 佐竹昭広, 久保田淳 校注 岩波書店, 1989 (新日本古典文学大系 39)