圓融天皇 後村上陵 (右京区宇多野福王子町)
「福王子神社」から宇多野小学校方面に向かって2,3分歩くと、静かな住宅街に 「圓融天皇 後村上陵 (えんゆうてんのう のちのむらかみのみささぎ)」 がひっそりとある。その先、宇多野小学校の北側にある妙光寺の裏山には、圓融天皇の父 村上天皇の陵もある。(陵形:円丘)
【圓融天皇(959-991)】
NHK大河ドラマ「光る君へ」にも登場した第64代 圓融天皇は、村上天皇の第五皇子として天徳3 (959) 年に誕生。母は右大臣 藤原師輔の娘・皇后 (中宮) 安子。安和2 (969) 年、冷泉天皇 (村上天皇の第二皇子) の譲位により即位。11歳であったため、大伯父で太政大臣の藤原実頼が摂政となるが、翌年に実頼が死去。外舅の藤原伊尹 (これただ) が摂政を引き継ぐ。
天禄3 (972 ) 年 元服を迎えると間もなく藤原伊尹も死去。その後「関白」職をめぐり伊尹の二人の弟 (藤原兼通・兼家) の間で争いが起きるが、天皇は亡母の遺訓に従い兄の兼通を関白とした。貞元2 (977) 年、関白兼通が重病となったため、その後任には兼家でなく外戚関係のない藤原頼忠を指名。
天元元年 (978) 年、兼家が次女 詮子を入内させ、女御となった詮子は懐仁親王 (後の66代一条天皇) をもうける。しかし天皇は空いていた中宮の座に詮子ではなく、頼忠の次女 遵子を当てたため、兼家は詮子と懐仁親王を自邸に連れ帰り出仕も辞めてしまう。
そもそも圓融天皇は、兄 冷泉上皇の子が成長するまでの「中継ぎの天皇」とみなされていたようで、藤原氏の勢力に翻弄される半生であったのだろう。永観2 (984) 年、懐仁親王の立太子を条件に冷泉上皇の皇子 師貞親王 (第65代花山天皇) に譲位して太上天皇となる。その後出家し、勅願寺である圓融寺*1 に居住。
正暦2 (991) 年、33歳で圓融寺にて崩御。亡骸は圓融寺の北原で火葬に付され*2、父 村上天皇陵近くに遺骨は納められた。
*1 平安時代中期後半、双ヶ岡の北東部一帯にかけて、寺名の頭に「円」の文字が付けられた天皇発願による四つの御願寺が建立された。総称して「四円寺 (しえんじ) 」と呼ばれた四ヶ寺は、仁和寺の院家として天皇の後院的性格を持ち、後には近くに陵を造築、墓守としての性格を持つ寺院となった。圓融天皇建立の「圓融寺」(永観元 (983) 年に建立) がその始まりで、「円教寺」 (一条天皇)、「円乗寺」(後朱雀天皇 発願, 後冷泉天皇により完成)そして「円宗寺」(後三条天皇)の四寺。南北朝時代にすべて廃絶。1980年代後半の調査の結果、「圓融寺」の推定地は現 龍安寺の位置とされ、四円寺のうちの北端にあたることがわかった。
*2 龍安寺北側にある朱山には「朱山七陵 (しゅやましちりょう)」と呼ばれる天皇陵群があり、「圓融院火葬塚」を始めとして一条・堀河・後朱雀・後冷泉・後三条の各天皇と禎子内親王の7人の陵墓が比定されている。『源氏物語』の作者 紫式部の時代と関わりのある人々だ。
<参考資料>
・ 「天皇陵」 宮内庁 ・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・ 『第64代・円融天皇の皇位継承』 吉重丈夫 著 「WEB歴史街道」 PHP研究所, 2020
・ 『四円寺』 (財) 京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館 (リーフレット京都 No.81 (1995年10月)