菩提達磨 (ぼだいだるま, 生没年不詳)

人物,宗教・信仰関連

 日本で「だるま」と言えば、真っ先に思い浮かべるのは縁起物として親しまれているあの赤い張子の置物。座禅を長い間続けた結果、手足が萎え腐ってしまったという「達磨大師」の伝説に因んで、手足のない丸い形が特徴的。さらに「だるまさんがころんだ」や「にらめっこ」などの子どもの遊びにも登場。そんな「だるまさん」だが、実はそのモデルはえら〜いお坊さんだった?!

京都だるま寺の達磨大師像

 その名は「菩提達磨 (ぼだいだるま,菩提達摩とも)。中国禅宗の始祖とされるインド人仏教僧 (インド名はボーディダルマ “Bodhidharma")で、日本では達磨大師として知られる。その生涯や思想については様々な伝説が語られているが、20世紀初めに敦煌で信頼のおける「言行録」が発見され、鈴木大拙氏により紹介されて研究が進んでいるようだ。

 中国禅宗史研究者の柳田聖山氏によれば、達磨は仏陀より28代の祖師で、正法を伝えるために6世紀初頭に中国に渡来。南海を経て南朝の梁に至り、仏教を篤く信仰する武帝 (蕭衍 しょうえん) と問答するが、正法を伝えるに足らずと理解して密かに江北に帰る。その後、北魏の嵩山 (すうざん) 少林寺に入り、面壁すること9年間座禅を続けたとされる。その間に禅宗第二祖となる弟子の慧可に禅を伝え、以後中国に禅宗が広まった。永安元 (528) 年に150歳で遷化したとされ、諡は円覚大師。

 その一生は謎と伝説に満ちているが、よく知られるものを少しばかり記してみよう。

【達磨と武帝の問答:「無功徳」「廓然無聖」そして「不識」】

「梁武問答」杉本哲郎氏筆

 南インドを出発して3年後、梁の普通8 (527) 年9月21日に広州に到着。10月1日金陵に入り武帝に面会。「仏心天子」と称されるほど仏教に帰依していた武帝は、達磨にこう尋ねた。
「私はこれまでに寺を建立したり、写経をしたり、僧侶を保護するなど厚く仏教を信仰してきたが、どんな功徳があるだろうか。」
 達磨は即座に 「無功徳」 と答えた。現世利益的な功徳を追求したのでは、解脱して真実の自己に目覚めることはできないとの意。さらに武帝が「禅の真髄とは如何なるものか」と問いを重ねると、達磨は 「廓然無聖 (かくねんむしょう)」と喝破。つまり「からりと晴れわたった虚空のごとく、真如界には凡人・聖人の区別などない」。これまでの行い全てを否定された武帝が改めて「私の前にいるお前は何者か?」と尋ねると、達磨はたった一言「不識 (ふしき)」と答えた。「そんなもの、知らない。」まさに禅問答。

【面壁 (めんぺき) 九年・慧可断臂】

「面壁九年」杉本哲郎氏筆

 嵩山少林寺に滞在した達磨は、壁に向かい無言でひたすら座禅の修行に励むこと (壁観) 九年。その修行でついには足も手もなくなり、尻が腐るほどだったと言われている。ときに神光 (じんこう) という僧が、弟子入りを願ってやって来るが、達磨は許さない。そこで神光は自らの左肘を切って求道の赤心を示し、やっと入門を許された。後に神光は、「慧可」と名乗り禅宗二祖となった。

 

【隻履帰天 (西帰) (せきりきてん (せいき))】

京都だるま寺 隻履帰天像

 達磨大師が遷化し (一説には毒を盛られて亡くなったとも)、中国河南省熊耳山に葬られて3年後のこと。北魏の宋雲という僧侶が西域に赴いて帰国途中、パミール高原で片方の沓 (隻履) を持って独り歩む達磨に会った。「どこに行かれるのですか」と驚き尋ねる宋雲に、達磨は「天竺に帰るのだ」と答え、さらに「あなたの主君はすでに崩御された」と告げた。急ぎ北魏に帰った宋雲は、事の次第を新帝に報告。新帝の命により達磨の墓が開けられると、中には片方の沓のみが残されていたという。
 達磨大師がなすべき伝道を終えて故郷に帰る (西帰) 姿であったとも伝わる。

【「飢人伝説 (片岡山伝説)」:聖徳太子、達磨大師に会う】
 『日本書紀』推古天皇21(613) 年の条に、「飢人伝説」 または 「片岡山伝説」 と言われる次のような話がある。
 12月、聖徳太子が片岡 (片岡山) に遊行した時のこと。飢えと寒さで道に臥している人に出会い、姓名を尋ねるが弱っているらしく返答がない。哀れに思った太子は、飲食物を与え、さらに自らの上衣を脱いで着せ掛けて「安らかに寝ていなさい」と語りかけて歌を詠んだ。
 翌日、太子が使者を遣わしてその人を見に行かせると、飢人はすでに亡くなっていた。大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人をその場所に厚く埋葬し墓を建てた。数日後、「埋葬した人は、きっと真人 (聖, 仙人) に違いない」と感じた太子が、近習の者に墓を見に行かせると、墓を動かした様子はないのに棺の中は空で、太子が与えた上着だけがたたんで置いてあったという。
 飢人に与えた上着を再び身に着けた太子を、人々はとても不思議に思い「聖 (ひじり) は聖を知るというのは真実であった」と語り、ますます太子を畏敬するようになった。
 後世、この逸話に「太子が出会った飢人は禅宗始祖として知られる達磨大師であった」という件が付加されたようだ。奈良時代、聖徳太子は隋の思師禅師 (慧思禅師, 南嶽慧思とも)の生まれ変わりであるという説があり、これが「飢人伝説」の後日譚を生んだとされる。南嶽慧思は天台智顗の師で、天台宗二祖ともされる人物で、独特の禅法と法華信仰で知られる僧侶。その慧思に、達磨大師が日本への生まれ変わりを勧めた上で、自分は一足先に日本に渡り太子誕生 (すなわち南嶽慧思の生まれ変わり) を待つと語ったという(「南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」)。

 飛鳥の地で聖徳太子が誕生した574年には、慧思はまだ中国で生存していた (577年没) ことになっているので、太子の「南嶽慧思後身説」はあり得ないはず。しかしこの説は、唐招提寺を創建して日本に戒律を伝え、東大寺大仏殿に戒壇を築いた鑑真の弟子達によって普及されていったという。
 奈良時代、視力を失くしながらも唐から日本への渡海に挑み続けた鑑真の決断には、当時の唐にあった伝承「天台宗の祖師 慧思が日本の王子 (聖徳太子) に生まれ変わった」も影響を与えていると指摘する研究者もいる。

 片岡山は大和国葛下郡王寺 (現 奈良県北葛城郡王寺町) 周辺にあったと言われ、そこには現在 臨済宗南禅寺派の「片岡山 達磨寺」がある。本堂の下には達磨寺3号墳と呼ばれる古墳時代後期の円墳があり、達磨大師の墓とされている。また、室町時代作の達磨坐像や鎌倉時代作の聖徳太子坐像 (どちらも重文) が本尊として安置されている。

【一華開五葉 結果自然成】

「結果自然成」杉本哲郎氏筆

 宋代に達磨関係の文書をまとめた『少室六門集』に載る「一華開五葉 結果自然成 (いっけごようをひらき けっかじねんになる)」という句。達磨が二祖 慧可に授けた「伝法偈」とのことで、「一華開五葉」は茶席での掛軸にもよく使われる。元々は以下のような五言古詩。

  吾本來茲土     吾 本 茲の土に来り
     傳法救迷情     法を伝えて 迷情を救う
     一華開五葉     一華 五葉を開き
     結果自然成     結果 自然に成る

 「もともと私がこの地 (中国) にやって来たのは、法を伝えて迷える人々を救うためだ。ひとつの花が五弁を開き、実は自ずから実る」といった意味。ただ、「一華開五葉 結果自然成」に関しては、その意図するところをさらに深く解釈する場合もあるようだ。

 「五葉」→ 解釈① 達磨が中国に伝えた禅が二祖慧可・三祖僧璨・四祖道信・五祖弘忍・六祖慧能へと引き継がれ、やがて禅宗五家 (臨済宗・潙仰 (いぎょう)宗・雲門宗・曹洞宗・法眼宗) に分かれて発展するとの予言。
       解釈② 心に仏心の花が一輪開けば、それは仏の『五智』となる。『五智』とは大日如来が備え持つという五種の智恵のことで、「法界体性智 (ほっかいたいしょうち)」「大円鏡智 (だいえんきょうち)」「平等性智 (びょうどうしょうち)」「妙観察智 (みょうかんさっち)」「成所作智 (じょうしょさち)」。
  … 禅語は如何様にも解釈可 …?

<参考資料>
・ 京都 臨済宗妙心寺派 法輪寺 website, 本堂襖絵「少林余光」 杉本哲郎画伯筆 の解説文
・ 奈良 臨済宗南禅寺派 片岡山 達磨寺 website   ・ 『達磨 (禅宗の開祖)』 日本大百科全書
・ 『達磨の無心哲学と行為理論:その今日的意義と敦煌文書の再構成』 側瀬 登 著 (「法政哲学」14巻 p.35-46, 法政哲学会 2018.3.20)
・ 『達磨さんの逸話』 (今日の言葉 2024.05.12) 臨済宗円覚寺派大本山 円覚寺 website
・ 『鑑真招いた「来縁」の袈裟 唐招提寺』 浜部貴司 文 (”もっと関西” 日本経済新聞, 2018.6.6)
・ 『初めての人のための漢詩講座18』 平兮 明鏡 著 ZENzine    ・フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』