円成寺 (奈良市忍辱山町) (1)
 忍辱山 (にんにくせん) 圓成寺 (えんじょうじ) 真言宗御室派
  本尊:阿弥陀如来  札所:大和十三仏霊場 第12番札所

JR・近鉄奈良駅より奈良交通バスで約30分ほど。東之坂町から柳生街道に入ると、辺りの景色は次第に田畑と森林が広がる山里に変わっていく。バス停「忍辱山」で下車すれば、円成寺東門まではすぐ。
【歴 史】
 創建については諸説あり。
・天平勝宝8 (756) 年に聖武上皇・孝謙天皇の勅願により、鑑真の弟子の唐僧虚滝 (ころう) 和尚の開創 (江戸時代の『和州忍辱山円成寺縁起』による)。
・延喜年間 (901-923年)、京都東山鹿ヶ谷に円成寺を建立した益信という僧が、大和国忍辱山を訪れてこの地に寺を建て「円成寺」と号した (『忍辱山知恩院縁起』による)。
・万寿3 (1026) 年 中興の祖とされる命禅 (みょうぜん) 上人が、諸国行脚の後、この地に十一面観音を祀る仏殿を建立したのに始まるとも (『円成寺縁起』『忍辱山知恩院縁起』『円成寺略言志』による)。

 天永3 (1112) 年 「小田原聖」と呼ばれた経源(迎接上人・京都南山城の随願寺もしくは浄瑠璃寺の僧)が、阿弥陀堂を建て、阿弥陀如来像を安置。
 仁平3 (1153) 年 広隆寺別当、東寺長者、高野山管長、東大寺別当を歴任した京都御室仁和寺の寛遍上人が忍辱山に登り、真言宗の一派忍辱山流 (東密広沢六流の一つ) を始めて寺門が栄える。
 文正元 (1466) 年 応仁の乱の兵火により、堂宇の大半が焼失したが、子院知恩院院主・栄弘阿闍梨を中心に再興が進められた。
 文明13 (1481) 年 栄弘は室町幕府 足利義政の使者として朝鮮に渡り、「高麗版大蔵経」を請来。
 文明19年 (1487) 年 14の堂宇が復興された。
 江戸時代 将軍家の殊遇を受け、当初130石であったが、朝鮮より請来した「高麗版大蔵経」(現在は東京 増上寺蔵) 献上の恩賞として105石が加増。寺領235石、山内23寺を有する寺院となった。
 明治期 神仏分離令により、寺領を失い衰退の一途をたどる。明治10 (1877) 年には、本堂、楼門、護摩堂、観音堂、鎮守三社を残すのみとなった。
 明治15 (1882) 年 盛雅和尚の晋山後、次第に楼門、本堂の大修理が行われるなど伽藍の保持が進み、多宝塔も再建されるなどして現在に至る。
【境 内】
<本堂 (阿弥陀堂) (重文)>

 応仁の兵火後、程なくして栄弘阿闍梨が焼失した旧本堂と同じ規模・様式で再建。入母屋造妻入で正面三間、側面四間。左右に一間の孫庇が付けられ、これを身舎の屋根から一続きの縋破風屋根で葺いている。中央の一間に階段があり、その左右は一段高い舞台となっている。全国的に見ても珍しい「春日造社殿両庇付寝殿造」の建物という。
 堂内中央の内陣にある須弥壇上に特徴的な厨子があり、御本尊の阿弥陀如来坐像が安置されている。「三方開放高御座型 (たかみくらがた) 大形厨子」と呼ばれるこの厨子には、室町時代再建時の銘文が残るとのことで、四方正面の蟇股も彩色がよく残っている。須弥壇の上は折上格天井、大壇の上は小組格天井で、その周囲は四方流化粧天井というこれまであまり見たことのない造りだが、藤原時代の阿弥陀堂の特徴のようだ。また内陣の四本柱には、観音菩薩、勢至菩薩を始めとして楽器を奏で、優雅に舞う菩薩達が極彩色で描かれている。その様子は、阿弥陀二十五菩薩来迎を表現しているようで、まさに浄土の世界。柱根の反華座が珍しい。
 左右庇下には、局 (つぼね)、宝蔵、経蔵、籠堂 (こもりどう)、御堂 (みどう)が設けられており、三方壁面には最近の作品らしいが天部の神々の絵も飾られている。
<楼 門 (重文)>


 応仁2年 (1468) 年に再建される。三間一戸入母屋檜皮葺の上下二層からなる門。庭園の回遊路に石段が設けられ、下から見上げる景色は壮観。
 上下層とも和様三手先が使われ、下層出入口の上には正・背面ともに花肘木が入れられている。扁額には「忍辱山」の文字。現在は門としては利用されておらず、西側の石段を上って受付を済ませて本堂前から間近に拝見することになる。
<多宝塔>
 楼門の西側に建つ多宝塔は、元は平安末期に後白河法皇が寄進したとされる。応仁の兵火で焼失後に再建されるが、大正9 (1920) 年に老朽化に伴い鎌倉に移譲された*。3代目となる現在の塔は、平成2 (1990) 年に新たに建立されたもので、平成29 (2017) 年11月まで運慶作の国宝「大日如来坐像」が安置されていた。
 楼門の西側に建つ多宝塔は、元は平安末期に後白河法皇が寄進したとされる。応仁の兵火で焼失後に再建されるが、大正9 (1920) 年に老朽化に伴い鎌倉に移譲された*。3代目となる現在の塔は、平成2 (1990) 年に新たに建立されたもので、平成29 (2017) 年11月まで運慶作の国宝「大日如来坐像」が安置されていた。
 金色に輝く相輪が目を惹く現在の多宝塔は、上層が円形で下層が方形。軒がグッと反り上がったような姿は、力強さを感じさせる。また亀腹や下層部の白漆喰と丹のコントラストが、古色を帯びた境内に明るさをもたらしている。塔内は、仏画師 中村幸真氏により壁面に真言八祖、大日如来の台座の柱には菩薩・如来などが色鮮やかに描かれている。また格天井にも細やかな彩色が施されており、東側入り口から覗くようにしか拝見できないのが残念。

現在安置されている「大日如来坐像」は、平成30 (2018) 年に藤曲隆哉氏により模刻奉納されたもの。金箔も鮮やかな金色に輝く大日如来となっている。
* 2代目多宝塔の初重は、現在は鎌倉にある臨済宗建長寺塔頭寺院「長寿寺」の観音堂として、かなり禅宗様に改められながらも大切にされている。
<護摩堂>
 本堂の西側に建つ「護摩堂」は、享保15 (1730) 年に再建され、平成6 (1994) 年に改修されたもの。毎月28日に不動明王護摩供養が営まれる堂内には、不動明王立像、僧形文殊菩薩坐像、弘法大師坐像が安置されているという (非公開)。
 本堂の西側に建つ「護摩堂」は、享保15 (1730) 年に再建され、平成6 (1994) 年に改修されたもの。毎月28日に不動明王護摩供養が営まれる堂内には、不動明王立像、僧形文殊菩薩坐像、弘法大師坐像が安置されているという (非公開)。
 堂宇横にひっそりと佇む石仏三体 (阿弥陀如来坐像と地蔵菩薩の坐像・立像) がお寺の景色によく似合う。特に中央の阿弥陀様は、優しく微笑んでいるかのような表情、印を結ぶ両手、衣紋の様子など秀逸。

<鎮守社 春日堂・白山堂 (国宝)>
 本堂の東側、一段と高い石垣の上に建つ。石段下からの拝見になるため、細部はよく見られないが、大きさも形も同じ社殿が双子のように並んでいる。「春日堂」には春日大明神、「白山堂」には白山大権現がそれぞれ祀られる。
 安貞2 (1228) 年、春日大社造営の際に当時の春日大社神主 藤原時定卿より旧社殿が寄進されて鎮守社とした。表は入母屋、裏は切妻、檜皮葺の屋根には棟木・千木・堅魚木がのり、蟇股・懸魚・勾欄などは鎌倉初期の特色を現しているという。全国最古の春日造社殿。
 大正5 (1916) 年の解体修理の時、「春日堂」から永正15 (1518) 年から慶応3 (1867) 年までの6枚 (表裏合わせて8枚) の修理の棟札が見つかり、社殿と共に国宝指定となった。
<宇賀神本殿 (重文)>


春日堂・白山堂の東に建つ「宇賀神本殿」は、覆屋内にあり、一間社春日造で向拝が唐破風造となっている。檜皮葺の屋根。鎌倉後期の造営のようだが、宇賀神を祀る社殿としてはなかなか見ることのない小さいながらも秀麗なお社。
<春日堂・白山堂 拝殿 (奈良市指定文化財)>
 鎮守社である「春日堂」と「白山堂」の南側にある拝殿は、境内の木陰に隠れるように建つ。江戸時代 延宝3 (1675) 年の建立。桁行四間、梁行三間 (東側二間) の入母屋造こけら葺。簡素な美しさのある姿は、拝殿とは思えない上質な建造物。
<鐘 楼>

拝殿の東隣にある鐘楼は、江戸時代 寛文7 (1667) 年に再建されたもの。桁行梁行ともに9尺の入母屋造瓦葺。外部からはよく見えない梵鐘は、近年寄進されたものとのこと。
<参考資料>
・ 圓成寺 参拝栞,  website
・ eoユーザーサポート  「円成寺」       ・ 『大和忍辱山圓成寺多宝塔』 (日本の塔婆)
・ 「鎌倉の寺院古建築めぐり」  (e-ざ鎌倉・ITタウン)