「寅の月」に「寅のお寺」参り
2月は「寅の月」。「寅のお寺」として知られる奈良の 信貴山朝護孫子寺 では、中秘仏「毘沙門天王像」が御開扉となる。
【信貴山と「寅」の関係】
信貴山朝護孫子寺と聞いてまず思い浮かぶのは、巨大な張り子の大寅。阪神タイガースファンの参拝でも有名。しかしなぜ「寅」なのか?
飛鳥時代6世紀中頃、百済からヤマト政権に仏教が伝来。しかしその仏教の受容をめぐり崇仏派の蘇我氏と、反対派の物部氏が対立。仏教の普及を考えていた聖徳太子 (厩戸皇子) は、蘇我氏と共に物部氏を倒すことを決意。
582年 (寅年)、聖徳太子はこの山で毘沙門天王を感得。まさにそれは寅の日寅の刻であったという。587年7月、蘇我馬子は物部守屋追討軍を派遣 (丁未の乱)。この時蘇我軍に加わった聖徳太子は、毘沙門天に戦勝を祈願し、勝利すれば仏法の弘通に努めると誓った。見事勝利した太子は、この山を「信ずべき貴ぶべき山」として『信貴山』と名付け、自ら刻んだ毘沙門天像を守護本尊として祀り伽藍を建立。
以来、毘沙門天が出現した「寅年・寅の日・寅の刻」に因んで「寅」が信仰されるようになったということ。境内には 「日本最初多聞天* 出現霊地」
の石碑があり、勝負事や財運福徳の信仰を集めている。
* 「多聞天」 は 「毘沙門天」 が四天王の一尊として北方を守護するときの呼称。
【御本尊奉拝】
普段は本堂外陣から『お前立ち』を拝するが、今回は内陣に入って間近に 『中秘仏』 の
「毘沙門天王像」 を拝尊。厨子の奥に安置されているので、やや見え難いが、革製の甲冑を身に着け、右手に宝棒、左手には宝塔を掲げて両足でしっかと邪鬼を踏みつける勇ましい姿だ。眉を寄せ、見上げる者を品定めするかのような厳しい表情は、なかなかの迫力。「毘沙門天王像」の左側には妻の「吉祥天像」、右には二人の末の息子 (五男とか) の「善膩師童子像」が祀られている。
朝護孫子寺の本尊には、さらに 『奥秘仏』 があり、こちらは12年に一度寅年にのみ開扉となる。今回拝観した 『中秘仏』 は、年3回開扉される。
特別開扉の折には、本堂内陣の背後 (裏堂) に安置される毘沙門天王の眷属である二十八使者の像も拝観できる。薄暗い中に立つ使者群像は、修験者や僧、上人など様々な風体で、他所ではなかなか拝見できないもので、興味深かった。毎年10月には、二十八使者に扮した信徒と僧侶による練り行列「毘沙門天王二十八使者守護善神練り行列」が行われるようだ。
【覚鑁 (かくばん) 上人の如意宝珠と『戒壇巡り』】

本堂入り口に 「戒壇巡りのおすすめ」 という案内がある。それによれば、本堂地下には覚鑁上人が納めた「如意宝珠」が祀られており、その戒壇を巡ると心願成就のご利益が大変にあらたかであるとのこと。
さて、覚鑁上人とは?
900年ほど前、平安時代後期のこと。真言宗中興の祖とされる覚鑁 (かくばん) 上人、32歳の頃。信貴山に籠り修行をしていると、毘沙門天王が現れ如意宝珠を賜り、それを本堂に納めたと伝わる。その後、覚鑁上人は、腐敗衰退していた当時の高野山の状況を憂え、真言宗の建て直しに取り組んでいたが、反対派から命を狙われるなどして「豊福寺 (ぶふくじ)」(後に「根来寺」となる) に拠点を移すこととなった。覚鑁入滅後、彼の教学・解釈を基礎とした「新義真言宗」が成立する。
いよいよ 『戒壇巡り』 。受付で説明を受けてから、奥にある地下に続く階段を降りていく。周りは次第に暗くなり、階段を降りた先はまさに真っ暗な闇。右手を石の壁から離さないように壁伝いにゆっくりと歩いていく。壁の感触はツルツルとしてひんやり冷たい。夜道でも照明のある現代、漆黒の闇とも言える空間には些か恐怖を覚える。そんな時、生まれ歳の干支の守本尊八体が祀られている場所の淡い灯が見えて、ホッとする。その先はまた闇だが、今度は「如意宝珠」が納められた所の錠前があり、これに触れることで「如意宝珠」に触れるのと同じご利益がいただける。
出口から明るい堂内に戻った時、心底ホッとすると同時に、仏教における「無明」の一端を感じさせられた気がする。得難い体験をさせていただいた。
参拝した翌日の2月21日・22日には「信貴山寅まつり」が開催。寅行列や納め寅供養、フードフェスなどが行われて大いに盛り上がるらしい。帰途、その準備が着々と進められている境内はなんだか楽しそうな雰囲気。仁王門近くでは、猫たちがのどかに散歩。なんと言ってもトラはネコ科!
<参考資料>
・ 信貴山朝護孫子寺 website
・ 新義真言宗 総本山 根來寺 website