熊野信仰と「京都三熊野神社」(2)

京都・寺社,宗教・信仰関連

<後白河法皇と熊野御幸>
 異母弟である近衛天皇の急死によって皇位を継ぐこととなった後白河天皇だが、直後に皇位継承をめぐり兄である崇徳上皇との間で「保元の乱」が勃発。この戦いで活躍した源義朝・平清盛等の武士が政権を掌握する時代は、すぐそこまで来ている。

新熊野神社

 在位3年で守仁親王 (二条天皇) に譲位して院政を開始した後白河上皇だが、翌年には源義朝と平清盛の対立から「平治の乱」が起き、平氏が勢力を伸ばし始める。その後法住寺殿で34年にわたる院政を行った後白河上皇 (後に出家して法皇) だが、「鹿ヶ谷事件」での院政の停止や「治承・寿永の乱」に始まる源平の争乱、さらには安元の京都大火や南都焼討など、政治的にも社会情勢的にも心休まらぬ激動の時代を生きた。そのような状況下、深く仏教を信仰してもいた後白河法皇にとって、「熊野御幸」は唯一の心の救いであったのかもしれない。
 後白河法皇の篤い熊野信仰は、やがて 「京都三熊野神社」 を誕生させることになる。

<「京都三熊野神社」誕生>

熊野神社

 上皇・法皇の「熊野御幸」が盛んになるに従い、熊野信仰は次第に武士や庶民の間にも広がりを見せ、熊野三山に参詣する人々も増加。しかし京都から紀伊熊野までは遠く大変な行程で、1ヶ月以上の旅となるためになかなか容易なことではない。そこで京都にいながら熊野参詣ができるようにと、熊野三山を勧請して創建・整備に力を入れたのが後白河法皇のようだ。

 【京都三熊野神社】

      新熊野神社          (熊野本宮大社に対応) 東山区今熊野椥ノ森町
   熊野神社      (熊野速玉大社に対応) 左京区聖護院山王町

熊野若王子神社

    熊野若王子神社 (熊野那智大社に対応) 左京区若王子町

 後白河法皇は、永暦元 (1160) 年、院政の拠点となった法住寺殿の鎮守社として「新熊野神社」を熊野の「新宮」として創建。「熊野若王子神社」は、法皇が同年に紀州熊野権現を禅林寺 (永観堂) の守護神として勧請したのが始まりともされる。また修験道の日圓が国家護持の為に紀伊国熊野から熊野大神を勧請したのに始まるという「熊野神社」を、熊野から持ち帰った土や樹木により整備したと伝わる。

<その後の熊野詣>
 武家政権の確立と朝廷の権威失墜を招いた「承久の乱」以降、皇族に代わり地方武士や庶民の熊野参詣が増え、室町時代には身分や老若男女を問わず大勢の人々が熊野に参詣。その様子は「蟻の熊野詣」と称されるほどであった。近世に入り衰退していた熊野三山の復興に力を入れたのが、江戸時代初期の紀州藩主徳川頼宣であったという。
 古来より人々が現世での生まれ変わりを信じて歩いた巡礼の道「熊野古道」は、2004年7月 「紀伊山地の霊場と参詣道」 としてユネスコ世界遺産に登録された。「道」として世界遺産に登録されたのはフランス-スペインの「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」に次いで2例目。今再び「パワースポット」として足を運ぶ人々が増えている。

   仏は常にいませども 現ならぬぞあわれなる
     人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたもう
             (『梁塵秘抄』岩波文庫 p. 16)

<参考資料>
・ 熊野本宮大社, 熊野速玉大社, 熊野那智大社  website
・ 『熊野信仰』  新熊野神社 website
・ 『熊野信仰とは何か』 (上)(中)(下) 大河内智之 著   (和歌山県立博物館 博物館ニュース コラム)
・ 『熊野三山』  フリー百科事典  『ウィキペディア(Wikipedia)』