泉涌寺「舎利殿」拝観 (東山区泉涌寺山内町)

京都・寺社

泉涌寺 大門

 辰年ほか特別な機会にのみ公開されるという「御寺 泉涌寺」「舎利殿」を拝観。公開期間は2024年1月6日-3月18日。
 駐車場前の大門から「降り参道」を真っ直ぐに下っていくと正面に見えるのが本堂である「仏殿」。寛文8 (1668) 年、徳川四代将軍家綱によって再建された禅宗様式の壮大な建物。「舎利殿」はそのすぐ後ろ (北側) にある。今回は第58回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開ということで、「舎利殿」前にテントと下駄箱が設けられていた。

 

降り参道

 「舎利殿」「仏牙舎利 ぶつげしゃり (釈迦の歯)」を安置するお堂で、慶長年間 (1596 – 1615年) に京都御所にあった建物が移築改装され、「仏殿」と同時代に現在の場所に移された。
 お堂内は薄暗く、思ったほど広くはない。内陣中央の壇上には「仏牙舎利」を納める荘厳された「舎利塔」が安置され、左右にはそれを守るかのように「月蓋長者像」「韋駄天像」(共に重文) が立っている。「仏牙舎利」は、唐代の律宗の僧で南山律宗の開祖である南山道宣に由来するもので、開山の俊芿 (しゅんじょう) の弟子 湛海 (たんかい) が、安貞2 (1228) 年に南宋慶元府の白蓮寺より苦労して将来したという。また「月蓋長者像」「韋駄天像」の二像は、観音堂の本尊「楊貴妃観音」と面貌や用材、細部の造形の方法などが共通していることから、「仏牙舎利」が将来されたのと同じ頃に南宋で製作されて日本にもたらされたようだ。彩色豊かで両の手を胸前で合わせて拝むような姿勢の「韋駄天像」は、抱いていた韋駄天のイメージとは些か異なり、どことなく柔和な表情に見える。日本最古の韋駄天像とのこと。

仏殿

 今回の特別公開のメインは、「舎利殿」天井に描かれた狩野山雪の筆になる『蟠龍図』(正保4 (1647) 年の制作)。堂内で手を叩くと残響音があることから「鳴き龍」と呼ばれ、日光東照宮に対して「西の鳴き龍」とされる。ただ京都では大徳寺や相国寺でも「鳴き龍」を体験でき、それほど珍しいものでもない。これは “鳴龍現象" または “フラッターエコー (flutter echo)" と呼ばれるもので、天井と床との間で音の反射が繰り返されることによって起こる。天井が平面の場合と凹曲面の場合では、また異なった反響音になるらしい。音響関係ではよく知られた仕組みだが、拝観者の人々がこぞって手を叩き驚き感心した様子なのがなんとも興味深い。龍図はさほど大きくはなく全体が赤みがかった色で、これまで観てきた白い龍とは異なる印象を受けた。
 また御内庫左右の板壁には、十六羅漢像が各々八体ずつ描かれている。こちらは龍図と違って間近に拝見でき、彩色や羅漢の表情をじっくり見ることができた。第六代 木村了琢の筆で寛文8 (1668) 年に完成されたもの。

舎利殿

<「裏堂」の壁画>
 「舎利殿」の内陣奥には「裏堂」と呼ばれる空間があり、その壁面には高さ約3m、幅約9mの大きな壁画「韋駄天図」が描かれているという。制作された1668 (寛文8) 年以来、現上皇の天皇在位30年を記念して2019 (平成31) 年に初めて特別公開されている。少し期待していたが、残念ながら今回は拝観不可だった。

「韋駄天図」とは?
 釈迦入滅後に遺体を荼毘に伏した際、帝釈天が仏牙舎利を取り出して天上に仏塔を建て供養しようとしたところ、二人の捷疾鬼 (しょうしつき) がその仏牙舎利を奪って逃げたという説話が生まれた。その後、仏舎利信仰の高まりとともに、足の速い韋駄天が捷疾鬼を追い詰めて無事に仏牙舎利を取り戻したという俗説ができた。その俗信を描いたのが「韋駄天図」。
 日本では『太平記』などにある逸話を下敷きに「三国伝来の仏牙舎利」を奉安する泉涌寺を舞台として、足疾鬼 ( '捷疾鬼’ ではない) と韋駄天の舎利をめぐる争いを中心とした能『舎利』が創られた。

舎利殿と仏殿

 「メトロポリターナトーキョー」(2019.01.17の記事) に収載されている画像を拝見すると、「裏堂」壁面には唐風の甲冑をまとい剣を手にした凛々しい若武者のような韋駄天が描かれている。日に当たることもほとんどなかったためか、色彩もきれいに保たれている様子。いつか機会があれば拝見したいものだ。

<参考資料>
・ 泉涌寺 拝観の栞, website         ・ 「文化遺産データベース」  文化遺産オンライン
・ 「身近な計測」コラム   (小野測器 website)
・ 「皇室ゆかりの「泉涌寺」で舎利殿と韋駄天立像を公開」   メトロポリターナトーキョー, 2019.1.17