橘 嘉智子 (檀林皇后)

人物

橘 嘉智子 (たちばな の かちこ, 786-850) は、平安初期の第52代嵯峨天皇 (在位:809-823) の皇后で、仏教に深く帰依して嵯峨野 (ほぼ現在の天龍寺寺域) に日本最初の禅i院「檀林寺」を創建したことから「檀林皇后」とも称される。

【橘氏とは】
橘氏は日本の歴史ある四姓「源平藤橘」のひとつで、そのルーツは飛鳥時代末期の県犬養 (あがた いぬかい ) 三千代 (橘三千代) に遡る。三千代は第40代天武天皇時代から朝廷に出仕し、敏達天皇の玄孫にあたる美努王 (みぬおう) に嫁いで、葛城王 (後の橘諸兄)・佐為王 (橘佐為)・牟漏女王 (藤原房前の妻) をもうける。その後美努王とは離別して藤原不比等に嫁し、大宝元年 (701) には安宿媛 (後の光明皇后) が生まれる。第43代元明天皇は、その即位式において、三千代の長年に亘る忠誠に対し橘宿禰 (たちばなのすくね ) の氏姓を与え、これが「橘氏」の始まりとなる。また藤原朝臣姓が不比等とその子孫に限定されて、「藤原氏=不比等家」が成立して朝廷での影響力を強めていった背景には、三千代の尽力もあったとされる。

当時の律令制においては、女性の姓は子孫に引き継がれないという原則があったため、「橘氏」は三千代一代限りのものだった。一方、三千代と美努王の子・葛城王 (橘諸兄・たちばな の もろえ, 684-757) は、皇族とは言うものの血縁はすでに薄く、朝廷で高い役職を得ることは極めて困難であった。そこで葛城王・佐為王兄弟は、三千代没後の天平8 (736) 年、臣籍降下して「橘宿禰」を賜ることを天皇に願い出て許され、葛城王改め橘諸兄となった。折しも翌年、天然痘が流行して政権の中心にあった藤原4兄弟始め議政官が相次いで亡くなったため、諸兄は右大臣となり、さらに天平15 (743) 年には左大臣へ昇進して政権の中心に。天平勝宝2 (750) 年には「朝臣」姓を賜り、諸兄は以降「橘朝臣」を称した。

【「橘奈良麻呂の変」から嘉智子入内へ】檀林寺跡地の石碑
孝謙天皇朝になって天皇の寵愛を受ける藤原仲麻呂が急速に台頭してくる中、諸兄は讒言により官職を辞し、天平勝宝9 (757) 年に死去。同年孝謙天皇は、仲麻呂が推す大炊王 (後の淳仁天皇) を立太子。仲麻呂の専横に不満を抱いていた諸兄の息子 奈良麻呂は、密かに大伴古麻呂・小野東人らと仲麻呂の排除を画策。しかし密謀が漏れてしまい一同は捕らえられ、奈良麻呂は獄死 (「橘奈良麻呂の変」)。

「橘奈良麻呂の変」により勢いを失っていた橘氏に再び希望をもたらしたのは、奈良麻呂の孫娘 橘嘉智子だった。才色兼備とされる嘉智子は、嵯峨天皇がまだ賀美能 (神野) 親王と呼ばれていた頃に入侍し「夫人」となる。弘仁6 (815) 年、嵯峨天皇は、即位直後に妃とした高津内親王 (桓武天皇の娘で異母妹) を廃し、橘嘉智子を皇后に立てた。嵯峨天皇は多くの妃を後宮に入れたことで知られるが、その中から嘉智子を皇后として選んだ理由として、彼女の美しさや才能を愛したのみならず、彼女が「王族と王族末裔氏族の統合・融合政策のポイントないし結節点にあたる橘氏の嫡系の出自である」ことを挙げる歴史家もいる。

ともかく橘氏出身としては最初で最後の皇后となった嘉智子は、嵯峨天皇との間に仁明天皇 (正良親王)・正子内親王 (淳和天皇皇后) 他2男5女をもうけた。弘仁14 (823) 年には、嵯峨天皇の淳和 (異母弟) への譲位に伴って皇太后となり、嵯峨天皇とともに冷然院に住んだ。天長10 (833) 年、淳和天皇の譲位により、実子の仁明天皇が即位して太皇太后となる。この頃嵯峨天皇は、洛外の離宮 嵯峨院 (後の大覚寺) に御所を新造し、嘉智子共々移り住む。嘉祥3 (850) 年5月、冷然院において嘉智子崩御。

【橘嘉智子の功績・逸話】
(1) 「檀林寺」創建
仏教に深く帰依していた嘉智子は、承和年間 (834-48)、唐の禅僧 義空を招請・開山として嵯峨野に日本最初の禅院 檀林寺を創建。嘉祥3 (850) 年には仁明天皇の病気回復を祈願し出家。檀林寺は、嘉智子の死後急速に衰退するが、その後再興されて、室町時代には京都尼寺五山の一つとされた。しかし後に廃絶。足利尊氏が跡地に天龍寺を建立。

(2) 大学別曹「学館院(学官院とも)」の設立
橘氏族の子弟の教育のため、承和年間 (834-48)の末頃、弟 (兄とも) の右大臣氏公とともに大学別曹「学館院」を設立。右京二条西大宮辺りにあったとされる。康保元 (964) 年には大学別曹として公認されるが、橘氏の没落とともに衰退。その後、橘氏と縁戚関係にあった藤原氏が是定 (ぜじょう) として相続し、学館院別当職と学館院領は中世まで存続した。

(3) 橘氏氏神の「梅宮大社」遷祀梅宮大社
現在右京区梅津フケノ川町にある「梅宮大社」は、県犬養三千代が橘氏一門の氏神として山城国相楽郡井出庄 (現在の綴喜郡井手町付近) に創祀したのに始まる。その後、奈良そして泉川 (木津川の古名) の上流鹿背山に遷され、平安時代に嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子によって現在地に遷祀された。嘉智子が梅宮神に祈願して皇子 (後の仁明天皇) を授かり安産であったという伝承に因み、子授け・安産の神として信仰されている。

(4)「承和の変」との関わり
「承和の変」とは
 第54代仁明天皇の即位の時には、皇太子として淳和上皇の皇子 恒貞親王 (母は嵯峨天皇と嘉智子の皇女 正子内親王) が立てられた。しかしその後、藤原北家の良房の妹 順子が仁明天皇の中宮となり、道康親王 (後の文徳天皇) が誕生すると、良房は道康親王の立太子を画策し始める。状況を察知した恒貞親王は皇太子辞退を願い出るが、慰留されたままで承和7 (840) 年には父親である淳和上皇が、さらに2年後には嵯峨上皇が相次ぎ崩御。恒貞親王に仕える伴健岑とその盟友橘逸勢 (嘉智子の従兄弟) は、皇太子の身に危険が迫っていると察して皇太子を奉じて東国に赴くことを密かに企てた。ところがその計画を相談された阿保親王 (平城天皇の皇子)が、太皇太后橘嘉智子に密告。事の重大さに驚いた嘉智子は、良房に相談。その結果、健岑、逸勢らは逮捕され、恒貞親王は責を問われて皇太子を廃された。逸勢は伊豆配流 (途中遠江国で没)、健岑は隠岐に流された。

 この変では、廃太子となった恒貞親王の実母であり嘉智子の娘である正子内親王は、嘉智子を深く恨んだと言われている。事件後、藤原良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立てられた。
 通説では “承和の変" は藤原氏による他氏排斥事件の始まりで、名族伴氏 (大伴氏) と橘氏に打撃を与え、また同じ藤原氏の競争相手をも失脚させたとされている。この事件がその後の「藤原北家 摂関政治体制」の契機となったことは事実だろう。

(5)『檀林皇后九相図』西福寺のお地蔵さま
東山区轆轤 (ろくろ) 町の「六道の辻」にある桂光山西福寺 (さいふくじ) の地蔵堂は、檀林皇后が正良親王 (後の仁明天皇) の病気平癒祈願のためにしばしば参詣したといい、寺宝として『檀林皇后九相図』が残されている。九相図 (くそうず、九想図とも) とは、屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく過程を9段階に分けて描いた仏教絵画。
仏教を深く信仰していた皇后は、自分の死後、亡骸は野生の鳥獣の飢を救うために道端に放置するようにと遺言したと言われている。自らの死体が腐敗し白骨化していく様を人々に示すことで、仏教の「諸行無常」の教えを示したかったのかもしれない。また、その朽ち果てていく様子を絵師に描かせたという伝説も残っており、『檀林皇后九相図』はそうしたもののひとつか。
その檀林皇后の亡骸が置かれた場所は、現在の「帷子 (かたびら) ノ辻」辺りと言われている。また皇后の葬儀の列が通りかかった際に、棺にかけていた経帷子 (死装束) が風で舞い落ちた所という説もある (実際の陵墓は別の場所にあり)。

嵯峨天皇への愛が偲ばれる歌2首が「嵯峨后」として『後撰和歌集』にある。

 ことしけし しはしはたてれ よひのまに おけらむつゆは いててはらはむ (巻第15)
 うつろはぬ 心のふかく ありけれは こゝらちる花 春にあへること (巻第16)

 人として女性として「橘嘉智子」の生涯は、とても心惹かれる。

<参考資料>
・ 『嵯峨王権論 : 婚姻政策と橘嘉智子の立后を手がかりに』 中林隆之 著 (「市大日本史」 10, 2007-05  大阪市立大学日本史学会)
・ 『あの世とこの世 : 九相を見る』藁科宥美 著 (兵庫県立歴史博物館 学芸員コラム 第129回)
・ 梅宮大社 公式HP          ・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』