(洛北)蓮華寺 (左京区上高野八幡町)

京都・寺社

拝観の栞

 洛北 蓮華寺 (らくほく れんげじ) へは、叡山電鉄「三宅八幡」駅を下車し、歩いて7, 8分程。高野川に沿って続く旧若狭街道 (鯖街道, 国道367号線) 沿い、西明寺山の麓にある。天台宗延暦寺派寺院で山号は「帰命山 (きみょうざん)」、本尊は「釈迦如来」。
 右手で天、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と言ったという釈迦誕生時の姿が描かれた散華の形の「拝観の栞」が寺名に似合う。

 

【歴 史】
 創建・変遷の詳細については不明。元は西八条塩小路 (七条塩小路) 付近 (現在の京都駅付近) にあった浄土教系の時宗寺院「西来院」であったという。
 室町時代、応仁・文明の乱 (1467-1477) で焼失、荒廃。
 江戸時代初期 寛文2 (1662) 年 加賀前田藩家老 今枝民部近義 (いまえだ みんぶ ちかよし) が、祖父 重直 (しげなお) の菩提のため現在地に移して再興 (『蓮華寺造営記』『帰命山寺記』)。
 再興に際して比叡山延暦寺の僧 実蔵坊実俊 (坂本吉祥院第二世) が開山として招かれたことから、比叡山延暦寺を本山として天台宗に属する寺院となる。寺号「蓮華寺」は、寺地が恵心僧都が発願建立した同名の天台宗廃寺の跡地であったことに由来するとも言われる。また建立にあたっては、詩仙堂を造営した石川丈山、朱子学者の木下順庵、画家 狩野探幽さらには黄檗宗の開祖 隠元隆琦や第二世 木庵性瑫らが協力したと伝わる。
 本堂・鐘楼堂・井戸屋形・庭園は創建当時のままに残る。

 今枝 重直 (1554-1628)
 美濃の戦国大名 斎藤道三の家臣 今枝忠光の子として生まれる。織田信長・信雄、豊臣秀吉・秀次と仕え、秀次没後は前田家に重用されて大坂冬の陣・夏の陣に出陣。元和5 (1619) 年、家督を養子 直恒に譲って得度し宗二居士と名乗る。現在蓮華寺のある地に草庵を営み、茶の湯をたしなむなど、余生を風流人として過ごした。

山門

 今枝近義が蓮華寺に奉納した「蓮華寺殿肖像」(今枝重直像) が、狩野探幽の筆になり、石川丈山による19行の讃があることなどからも、蓮華寺の当時の文化人との交流の深さが推察される。


 今枝 近義 (1614-1679)
 重直の養子 直恒の三男。父に次いで加賀金沢藩家老となり、5代藩主前田綱紀に仕える。かつて蓮華寺が蔵していた『山王霊験記絵巻』(室町時代の制作, 重文, 現在 和泉市久保惣記念美術館所蔵) には、「寛文三年 (1663) 五月廿三日」の年記が付された狩野探幽の極書があり「桂離宮の建造にも尽力した今枝近義が先祖供養のため蓮華寺を再興し、本絵巻を寄進した」と記されているという。

山門からの参道

 加賀藩2代目藩主 (加賀前田家3代) 前田利常の四女 富姫 (ふうひめ) は、八条宮智忠親王 (桂離宮の基礎を築いた八条宮初代智仁親王の第一王子) に嫁しており、前田家は当時荒廃が始まっていた御殿 (離宮) の整備造営を援助。そうした経緯からも、前田家家老であった近義が当代一流の文化人達の協力を得て創建した蓮華寺は、立派なものであったろう。

【山門から庫裏へ】
 上橋バス停すぐ近くに「天台宗 蓮華寺」の石標が立つ。参道は民家の間にあるが、国道から創建当時建立の山門が見えている。山門をくぐると石畳の道がまっすぐ庫裏に続いているが、まず右手に目を向けると「鐘楼堂」が目に入る。

 

鐘楼堂

「鐘楼堂」… 檜皮葺の起り (むくり) 破風屋根で、格子が付けられたお堂の中に釣鐘がある。一般的な寺院ではあまり見かけないが、黄檗宗萬福寺の影響なのだろうか。釣鐘には「黄檗二世 木庵性瑫山僧」の銘が刻まれているとのこと。

 

 

 「鐘楼堂」横には石の鳥居があり、鳥居の先には本堂のある庭園が広がる。本堂に続く道もあるが、現在はここからは入れない。鳥居左手には瓦葺の井戸屋形「漱玉」と書かれた扁額が掛けられている。

鳥居から本堂を望む
井戸屋形
庫裏

 


   

 

 

 次は参道の左手 (西側) 奥。夥しい数の古い石仏が置かれ、中央には一際大きい地蔵菩薩石像。古い石仏はすべて大日如来で、その数約300体とも言われている。これらは京都市電河原町線の敷設工事に際して発掘されたものらしい。古き時代の鴨川は死者遺棄葬の地であったので、弔いの供養仏が多く置かれ、それが度々の川の氾濫により埋没してしまったのだろう。京都の寺院ではこうした石仏群を時折見かける。中央の地蔵菩薩像は、供養のために後に制作し安置されたものと思われる。

寺子屋跡

【書院と庭園】
 参道突き当たりに庫裏と書院が一体になった建物がある。玄関前でふと上を仰ぎ見ると、山が迫ってくるように近い。拝観受付の隣に小部屋があり、北側奥に阿弥陀三尊が安置されている。小ぶりだが穏やかな表情の仏さま。南側には古い土蔵があり、「寺子屋跡」の案内板。1872 (明治5) 年の学制まで、寺子屋として使用されていたとのこと。非公開だが、建物保存のために入り口や窓が少しだけ開けられている。庭園との境には中門が設けられている。

 

書院
庭園


 小部屋に続く書院の東側には、広い池を中心とした庭園が造られている。左奥 (東北部) には蓬莱山を模した岩組、池中央には亀島があり、鶴石・舟石も配置されている。池南東の小高い場所には、モミジの樹々に隠れるように石造五重塔や宝篋印塔が見える。

 

【本 堂】
 書院の東南にある本堂に参拝するには、一旦庭に下りて南側の入り口まで回り込むことになる。本堂南側にも庭があり、入り口前の参道には「蓮華寺形灯籠」として知られる一対の苔むした古い灯籠が配置されている (庭園内での撮影は禁止)。

鳥居から見た蓮華寺形灯籠


 「蓮華寺形灯籠」… 現在「蓮華寺」型として流通している灯籠の本歌。丸竿を除いたすべてが六角形で、基礎には蓮弁が彫られている。中台は横線と蓮華唐草の二種になり、下部は蓮弁模様。もっとも特徴的なのは、傘を少し窄めたような長めの笠で、9本の線は瓦葺の葺地を表しているらしい。江戸中期以降、特に茶人に好まれたという。

 黄檗宗の影響か本堂は土間になっており、入り口には石川丈山筆の寺額が掲げられている。中央の須弥壇に、かなり古いが全面に螺鈿が施された立派な厨子が置かれ、その閉ざされた扉の奥に本尊「釈迦如来像」が安置されている。厨子は寺院創建よりかなり古く、明朝時代の中国製のものを加賀藩が輸入したのではないかと言われている。本尊後方の須弥壇、右側にも同じく古い螺鈿厨子があり、やはり秘仏の「不動明王像」が安置されている。どちらの厨子も細工が巧妙で美しい。また左側には鎌倉時代に作られた「阿弥陀如来坐像」が安置。こちらは拝観することができ、「上品下生印」を結び穏やかな表情の仏像。台座と光背は江戸時代に後補されたものということなので、浄土系寺院であった頃のものか?
 本堂天井を見上げると龍の図。創建時は狩野探幽の筆になるものと伝わるが、明治時代に失われ、現在のものは1978 (昭和53) 年に仏師 西村公朝氏によって復元された。

 庭園にはモミジが多く植えられており、秋には紅葉が美しいが、冬枯れの庭園はその姿を一番よく見せてくれる。緑の少ない時期は、庭の苔の青さと秋が残した紅葉の枯葉が織りなす美を味わえる。そして何より閑かさがうれしい。

 馬酔木咲く 山懐の 寺にをり 寂静の庭 いにしへ偲ぶ  (畦の花)

<参考資料>
・ 洛北 蓮華寺  拝観の栞,  京都市駒札
・ 黒川道祐 著 ほか 『近畿游覧誌稿』, 淳風房,1910.  国立国会図書館デジタルコレクション
・ 『今枝重直像』  国立歴史民俗博物館  “khirin"
・ 『山王霊験記絵巻』  和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム
・ (株) 杉田石材店 website   ・ ウィキペディア フリー百科事典   ・ 京都風光