大報恩寺(上京区七本松通)

京都・寺社

大報恩寺 本堂以前より拝観したいと思っていた大報恩寺(通称「千本釈迦堂」,真言宗智山派)を訪問。上七軒交差点を七本松通に沿って北に3,4分歩くと「国宝 千本釈迦堂」の大きな石柱が目に入る。参道の満開の桜が山門を彩る。門をくぐると、そこには「阿亀(おかめ)桜」。枝が地面に届こうかというほどの大きな枝垂桜だが、まだ三分咲きくらいかな?
お寺の縁起によれば、鎌倉時代安貞元年(1227)に藤原秀衡の孫にあたる義空上人によって開創。応仁・文明の乱をはじめ幾多の戦禍を奇跡的に免れた本堂(寝殿造)は、京洛最古の木造建築として国宝に指定されている。一般的な密教仏堂の配置構成と異なり、本尊の周囲を行道できる常行堂の作りとなっている。本堂内の柱には、応仁・文明の乱の時の刀や槍の傷跡が多く残り、戦禍がこの地にまで及んでいたことを生々しく伝えている。御本尊「釈迦如来像」は快慶の弟子である行快の作とのことだが、残念ながら秘仏のため拝見できず。

【おかめ塚】
本堂造営については、棟梁の妻「おかめ」の伝説がある。阿亀桜「おかめ塚」と「おかめ像」
名工と呼び名の高い棟梁・長井飛弾守高次が柱の寸法を切り誤って深憂しているのを見た妻のおかめは、「いっそ斗棋をほどこせば…」と一言。これに着想を得た高次は無事に本堂を完成させることができた。しかしおかめは、女の提言によって棟梁としての大任を果たせたことが世間に知られては、夫の名声に傷がつくと考えて上棟式を待つことなく自刃して亡くなった。高次は妻「おかめ」の名に因んだ福面を扇御幣に付けて飾り、妻の冥福と御堂の無事完成・永久を祈ったと伝えられる。
今日でも関西地方では、上棟式には工事の安全と家内繁栄を祈願してこの伝説由来の「おかめ御幣」を飾るとのこと。境内東塀の近くに宝篋印塔「おかめ塚」そして「おかめ像」があり、厄除・招福の信仰につながっている。

【霊宝殿】
本堂西側奥の霊宝殿では、運慶の弟子・定慶の手になる「六観音菩薩像」(聖、千手、馬頭、十一面、准胝、如意輪の六体)や、快慶一門による「釈迦十大弟子立像」(いずれも重文)など貴重な仏像をゆっくり拝見できた。准胝観音や馬頭観音は他ではあまり目にすることができず、その美しさに見入っていると時が経つのを忘れてしまう。十大弟子立像のうち、「目犍連像」と「優婆離像」の二体には快慶の銘があるとのことだが、各々が個性を持ってとてもリアルに作られている。また観音像と弟子像には胎内経が納められていたようだ。
また、菅原道真が梅の古木に自刻したという千手観音像(重文)も安置され、当寺に近い北野天満宮との関係の深さが窺われる。

千体地蔵塔本堂東奥にはたくさんの石のお地蔵さまが祀られている千体地蔵塔がある。『徒然草』鬱金の桜228段には「千本の尺迦念仏は、文永の比、如輪上人、これを始められけり」と、当寺への言及があるが、これは毎年3月22日に行われる「千本の尺迦念仏(遺教経会ゆいきょうぎょうえ)」のことで、釈迦最後の教えである「仏遺教経」を訓読する大念仏法会のこと。あのお地蔵さま達もきっとその法会に加わっているのだろうな…。薄緑色の花を咲かせている鬱金の桜がお地蔵さまへの供花のようだ。