遍照寺 (右京区嵯峨広沢西裏町)

京都・寺社

平安の創建当時は遍照寺山の麓に多宝塔や八角堂など多くの伽藍を有し、広沢池を庭とした大寺院遍照寺は、衰退・再興を繰り返し、今は広沢池南西の静かな住宅街にその門を構えている。遍照寺山門
ご住職のお話では、平安中期の989年、宇多法皇の孫である寛朝僧正が、第64代・円融天皇の命により朝原山(遍照寺山)麓の山荘を寺院に改めたのが始まりとのこと。最盛期には大覚寺・仁和寺と寺域を接するほどであったが、寛朝僧正没後は次第に衰微。応仁・文明の乱で廃墟と化すが、江戸時代の寛永年間に仁和寺宮覚深入道親王の内意により、本尊(十一面観音像本尊)等が現在地に遷されて遍照寺の寺名を引き継ぐ。文政13年(1830)、舜乗律師により復興され現在に至る。


護摩堂
【仏 像】
幸いにも創建時の仏像がそのまま残り、護摩堂の奥に大切に安置されている。
*本尊「十一面観世音立像」(平安時代の一木彫、重文)
 寄木造技法の完成者とされる定朝の父(または師)康尚の初期の作と伝えられる。かつては広沢池の観音島の御堂に安置され、金色に輝く観音様として評判だったようだ。穏やかでふっくらとしたお顔立ちは、まさに平安時代の仏像。腰を捻って膝は少し曲げ気味で、今にも歩み出しそうな様子。長年の護摩焚きで黒くなってしまっているが、当初の金箔や鮮やかな彩色が思い起こされるお姿。
*「不動明王坐像」(平安時代の一木彫、重文)
  こちらも康尚作と伝わる。平将門の乱平定の為に奉じられた成田不動尊と一木二体とされる。「赤不動明王像(赤不動)」や「広沢の赤不動さん」と親しまれている。どことなく優しげにも見える不動尊。
 その他にも平安時代の聖観音立像や鎌倉時代の釈迦如来坐像、地蔵菩薩半跏像などが安置されている。地蔵菩薩の半跏像はあまり見たことがなく、珍しく拝観させていただいた。

【寛朝大僧正の逸話】
 開山の寛朝大僧正は、延長4年(926)に祖父である宇多法皇の下で出家。天暦2年(948)寛空から灌頂を受け、その後仁和寺別当や東寺三長者など歴任。寛和2年(986)には真言宗初の大僧正となる。この寛朝なる人には様々な逸話が残るらしい。

<成田山新勝寺の開山>
 天慶2年(939)関東で「平将門の乱」が勃発した際、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝は、弘法大師自らが彫り開眼した不動明王を携えて千葉の成田に赴く。乱平定の護摩祈祷を続けた祈願最後の日に平将門が敗北。寛朝が帰京しようとすると、尊像がどうしても動かず、この地に留まるよう告げた。寺はその後、朱雀天皇より「神護新勝寺」の寺号を賜り勅願所となる。これが現在の「成田山新勝寺」の始まり。(「成田山開山縁起」より)

<寛朝僧正勇力の事>
 寛朝が仁和寺の別当であった頃の事。仁和寺を修理中のある日暮れ時、大工達が帰った後で寛朝はただ一人足場の近くで出来具合を眺めていた。とそこに黒装束、烏帽子で顔を隠すようにした男が現れる。「おまえは何者だ」と問うと、男は「寒くて耐え難いので着衣の1、2枚もいただこうと思いまして」と答えるなり寛朝に飛びかかろうとした。そこで寛朝がその男の尻をぽんと蹴ったところ、男の姿はかき消えてしまった。坊の中から僧達を呼び出してその追剥を探させると、なんと足場に落ち挟まって動けなくなっていた。寛朝は法師らに男を下ろさせて坊に連行。そして「老法師と侮ってはならぬぞ。だが何とも不憫である。」と言うと、着ていた衣の中から暖かいものを脱いで渡してやった。(『今昔物語集』巻23, 『宇治拾遺物語』巻14)

<降雨祈祷>
旱魃が続いた永延元年(987)、第66代・一条天皇の勅により、六大寺の僧を東大寺大仏殿に集めて降雨祈祷。すると翌日夕刻には遠雷鳴り響き大雨になったという。

逸話が物語るように寛朝大僧正の霊力は天台の良源と並び称されるほどに優れ、真言宗古義派の根本二流のひとつである「広沢流」の始祖となった(他は「小野流」)。また天性の美声に加えて音楽的才能にも恵まれていたようで、真言声明の興隆にも力を尽くして『理趣経』の韻調を調えるなど、東密声明の中興の祖とも言われる。

遍照寺山と広沢池 十三重の石塔また寛朝大僧正の頃の遍照寺には、以下のような逸話も残るらしい。
【安倍清明の不思議】
  陰陽師・安倍清明が広沢の寛朝僧正を訪ねた時のこと。側にいた僧や公達が、人をたちどころに殺せるかと清明に尋ねた。それに対して清明は、できないことはないが、生き返らせる方法を知らないので罪作りで無益なことと答えた。ちょうどその時、庭で蝦蟆を見つけた公達が「ではあれを一つ試しに殺してみてください」と言う。清明は「罪作りなことを。しかし試せとおっしゃるのであれば。」と草の葉を摘み、呪文を唱えてそれを蝦蟆の方へ投げつけた。蝦蟆はひしゃげて死んでしまい、これを見た僧達は色を失い恐れ慄いたという。」(『今昔物語集』巻24)

【源氏物語ゆかりの寺】
  観月の池として今も知られる広沢池を寺の庭池としていた遍照寺は、『源氏物語』ゆかりの地でもあると言う。
『源氏物語』の作者・紫式部が20歳の頃。村上天皇(寛朝僧正の従兄)の子である具平親王が、中秋の名月の夜に大顔という雑仕係の女性を伴ってお忍びで遍照寺を訪れた。ところが月見の最中に、大顔が物の怪に取り憑かれて急死してしまう。具平親王の又従兄妹である式部にとってこの事件は衝撃的で、後にこの出来事をもとに源氏物語の第四帖「夕顔」が構想されたと伝わる。

小さなお寺だが、古仏を間近に拝観させていただき充実した時間だった。嵯峨野にはまだまだ新しい発見がある。