西寿寺(さいじゅじ) (右京区鳴滝泉谷町)

京都・寺社


尾形乾山の窯跡(法蔵禅寺)を訪ねた折に偶然出会ったのが、浄土宗捨世派(しゃせいは)の西寿寺。法蔵禅寺よりさらに北奥に参道が見える。参道途中の崖には古い石仏。西寿寺山門 参道途中の古い石仏

楓と桜の木に覆われた参道の先には趣ある山門。石段を上っていくと右手に地蔵堂があり、その前の小さな祠には地蔵菩薩の石碑。

地蔵菩薩の石碑境内東側には鐘楼と庫裏。正面には堂々とした本堂、そして西側の一段と高い所には古い三重塔(近江・石塔寺の阿育王塔を模したもの)と石仏群が安置されている。洞窟の石仏もある。境内南西に十三重塔があり、横の石段を上がって行くと広々とした霊園に辿り着く。霊園から南方を振り返ると、雙ヶ岡とその麓の市街地が一望できる。

本堂 洞窟の石仏 十三重塔 鐘楼
『泉谷山西寿寺伝記』によれば、この寺院は寛永4年(1627)に伊勢松坂出身の北出嘉兵衛が、岱中(たいちゅう)良定上人を招請開山として創建されたという。本堂建立の時、太陽と星と月が彫られた三光石が現れ、そこより清水が湧出したので「泉谷山」と号したとのこと。その後、第5世単誉愚故上人により現本堂が建立され中興なるが、明治の神仏分離で荒廃。1879年、阪飯田弥兵衛、颯田(さった)本真尼により尼寺として再興。

【本尊阿弥陀如来坐像の謎】
 本堂に安置される阿弥陀如来坐像は、像高276㎝の「丈六阿弥陀」で定印を結ぶ。寺伝によればこの仏像は、万治元年(1658)に第5世愚故上人が、江州甲賀郡上野村(現・滋賀県甲賀市甲南町)の新宮大明神の本地仏を遷座したものという。現在「指定」は無いが、京都国立博物館の調査によれば平安後期の作で、定朝の流れをくむ仏師によるものではないかと推定されている。
【浄土宗捨世派】
 天文年間(1532-1555)の称念を祖とし、寺院の俗化や僧侶の形骸化に慨嘆し、法然の念仏思想に立ち返ろうと静閑な地に道場を設け、厳粛な清規のもとで専修念仏一行に励み、その興隆につとめた僧侶達のこと。後に念仏専修の為に隠遁生活を選んだ僧達を「捨世派」と呼ぶようになった。 (『新纂浄土宗大辞典』より抜粋)

「福猫」の石碑 霊園の薬師如来石像  西寿寺のHPを拝見すると、現在は新たな葬送の仕方を提案するなどこれからの寺院の在り方を模索中のように思われる。ペット供養もその一つなのか。山の高みに開けた霊園は、明るい陽光の下にあった。