法眼宅間勝賀終焉地(右京区鳴滝宅間町)

2022年8月10日史跡

「法眼宅間勝賀終焉地」石標福王子交差点から周山街道を少し北上すると左手に三宝寺橋があり、橋の南詰に「法眼宅間勝賀終焉地」の石標が立っている。敷地奥には「宅間塚」と「宅間勝賀塚碑」も建立されている。

【宅間勝賀(たくまのしょうが)】
 鎌倉時代の絵仏師。生没年不明。俗名は宅磨為基で宅間あるいは託磨、詫磨とも記し、法名は証賀、澄賀とも言う。平安時代後期から南北朝時代まで続いた絵師・絵仏師の流派である宅磨派の始祖と言われる宅磨為遠の息子。安元元年(1175)に出家し、その後法橋から法眼となる。平安仏画様式から宋画風の仏画を確立。代表作に東寺の絹本著色「十二天屛風」(国宝)など。

「宅間塚」と「宅間勝賀塚碑」 何故この地に「法眼宅間勝賀終焉地」の碑があるのかは、「宅間勝賀塚碑」がそれを物語っている。残念ながら碑文は風化が著しく読み難いが、「フィールド・ミュージアム京都」(京都市歴史資料館)で宅間勝賀の逸話を知ることができる。

 「宅間勝賀は栂尾高山寺の明恵上人に帰依し京と栂尾を行き来していた。ある時、明恵上人に春日と住吉の二神が降臨したことを知った勝賀は、二神の姿を絵に写したいと上人に懇請。常人が神の姿を見れば死ぬかもしれぬと上人は忠告するが,宅間はそれでも構わないと願った。二神もその志に感じ宅間の前に姿を現した。宅間は喜び二神の姿を拝写し、栂尾高山寺にはその二神の像が残る。 志を果たした宅間は喜びにあふれて京への帰途をたどったが,鳴滝の地に差し掛かったところで誤って落馬し命を落とした。」

 おおよそ以上のような内容で、この碑は延宝7年(1679)に三宅陽心高信という絵師によって建立されたようである。因みに、現在高山寺に伝わる「春日住吉明神像」は、宅間俊賀が明恵上人に命じられて描いたものを、「明恵上人像」(国宝)の作者として知られる恵日房成忍(えにちぼうじょうにん)が写し、明恵が神号を加えた原図を室町時代にさらに写したものと推定されている。

 神護寺、高山寺へと続く周山街道沿いには京都の古い歴史があちらこちらに残っていることを改めて感じた。