愛宕念仏寺 (1) (右京区嵯峨鳥居本深谷町)

京都・寺社

嵐山から京都バス「清滝行き」に15分程乗車し、「愛宕寺前」で下車すれば、目の前にはもう「愛宕(おたぎ)念仏寺」(天台宗) の仁王門が見えている。今は「千二百羅漢の寺」として有名な寺院だが、元は東山にあった古刹。

【歴 史】
天平神護2(766)年、称徳天皇により現在の東山松原通の「六道の辻」近くに「愛宕寺」として創建。当時この辺りは、山城国愛宕郡(おたぎごうり)と言われていた。
平安時代、鴨川の洪水被害で廃寺となる。その後延喜11(911)年に、醍醐天皇の勅願で、天台宗の僧 千観内供(せんかんないぐ)が復興。千観は生涯念仏を絶やすことがなく「念仏上人」と称され、寺も「愛宕念仏寺」と呼ばれるようになった。当時は七堂伽藍を備え勅願寺としての体裁を整えるも、その後は興廃を繰り返す。
羅漢石像群大正11(1922)年、本堂保存のため現在地に移転し、復興を図る。しかし戦時中に無住寺となり、昭和25(1950)年の台風災害で多大な被害を受けて廃寺となってしまう。昭和30(1955)年、仏師で僧侶の西村公朝氏(1915-2003)が住職に任じられ、「京都一の荒れ寺」の復興に着手。
 昭和55(1980)年から10年にわたり、山門の解体復元修理を始めとして境内全域の本格的な復興事業が行われた。翌年からは寺門興隆を祈念して、一般参拝者が自ら羅漢像を彫って奉納する「昭和の羅漢彫り」が開始。現在ではその数1200体となり、境内のあちらこちらに安置されている。
(創建の地である現在の東山区松原通大和大路東入の角地には「愛宕念仏寺元地」の石標が建つ)

【仁王門】 「洛陽第十六番愛宕寺」の石標仁王門
バス停「愛宕寺前」の西側にある小径を少し下ると、右手に朱塗り・瓦屋根の立派な仁王門が参詣者を迎えてくれる。江戸時代中期建立のもので、鎌倉時代初期の仁王像(京都市指定有形文化財)が安置されている。大正の移転時に本堂とともに移築されるが、昭和25(1950)年の台風で大破損を受け、昭和56(1981)年に解体復元修理された。門前向かって左手には、大きな「愛宕寺」の石標。右手には「洛陽第十六番愛宕寺」「ひぶせ地蔵尊」と刻まれた古い石標。かつては「洛陽三十三所観音霊場」の札所になっていたことがわかる。

【地蔵堂】
仁王門から見る地蔵堂延命・火除地蔵菩薩仁王門をくぐるとまず目に入ってくるのが、急斜面の上に建立された懸造りの地蔵堂。斜面のあちこちには、苔むした羅漢石像が置かれている。堂内に入ると右手中央に、「火之要慎」のお札で知られるあたご本地仏「延命・火除地蔵菩薩」(平安時代)が祀られている。

 

【本 堂】
本堂地蔵堂と向かい合って境内北側にあるのが本堂。境内西側の山肌を埋め尽くすように、夥しい数の羅漢像が並ぶ。様々な表情の羅漢像からは、多くの人々の願いや想いが伝わってくるようだ。
本堂は鎌倉中期の建立で重要文化財。方五間、単層入母屋造り。大正時代に松原通から移築されたもの。仄暗い静かな室内に足を踏み入れると、まず中央に安置された本尊「厄除千手観音」が迎えてくれる。ややふっくらとしたお顔で、優しさと同時に厳しさも感じさせる面差し。金箔もよく残っている。本尊の周りには、十二神将のうちの6体が置かれている。建物は、本尊が安置されている所の天井が二重折上げ格天井となっているなど、鎌倉様式の特徴をよく残しているとか。
本堂内部本尊左側には「訶梨帝菩薩(かりていぼさつ)」。「訶梨帝菩薩」は、日本では「鬼子母神」あるいは「訶梨帝母(かりていも)」と呼ばれていて、安産・子育ての守護神として信仰されている。50年ほど前に前住職の西村公朝氏によって造られた。左腕に赤ちゃんを抱え、右手は施無畏印を結んで半跏踏下の姿は、たくましいヒンドゥー神を想起させる。
本尊右側には、弁財天や金剛力士などの天部に属する神や十大弟子の一部の像が並ぶ。詳細な説明が無いので、いつ頃に造立されたものなのかは定かではないが、このお寺が信仰によって守られてきたことが伝わってくる。
さらにその右手奥には、これまであまり聞いたことのない「飛雲観音」が安置されている。西村公朝氏の手になる像で、航空殉職者慰霊供養と全世界の航空安全祈願のために造られた新たな観音像という。右手は施無畏印、左手には宝珠を持ち、あたかも雲中に立っているかのような姿。天龍寺の八幡社にも公朝氏作「飛雲観音菩薩」があるようだ。

最近は仏像を間近で拝見できる寺院が少なくなっているが、愛宕念仏寺はゆっくりじっくり仏像と対面できてとても心が和む。

《参考資料》
・愛宕念仏寺 参拝栞
・京都府文化スポーツ部文化政策室資料
・『フィールド・ミュージアム京都』 京都市歴史資料館