理性院 (醍醐寺) (伏見区醍醐東大路町)

京都・寺社

醍醐寺 総門

 旧奈良街道前に建つ醍醐寺の総門を入って三宝院横の桜馬場を仁王門手前で左折すると、三宝院北に小さな寺院が見える。醍醐寺塔頭で真言宗醍醐派の別格本山 「理性院 (りしょういん)」 だ。通常非公開の寺院だが、今年 (2023年) の「京の冬の旅」で7年ぶりに公開された。
 真言宗醍醐派、本尊:太元帥明王 (だいげんすいみょうおう)

【歴 史】
 平安後期 (1115年頃か) に醍醐寺の僧・賢覚 (けんがく) が、父・賢円の住房を改めて「太 (大) 元帥像」を安置して「理性院」とする。以来当院では太 (大) 元帥法を伝えており、三宝院、金剛王院、無量寿院、報恩院と共に「醍醐五門跡」のひとつとなった。また真言宗の事相における流派「小野六流」のうちの「醍醐三流」のひとつを伝える寺院でもある (他は三宝院流と金剛王院流)。
 応仁・文明の乱(1467-1477年) で焼失し、本堂と客殿が江戸時代に再建された。

【千体地蔵】
 瓦葺の山門前に立つと、その奥に夥しい数の石の地蔵尊が何段にもひしめくように並んでいるのが目に入る。「千体地蔵」と呼ばれ、先代住職が集めて安置され供養を始めたようだ。毎年10月第3日曜日には「千体地蔵供養」が行われ、千体地蔵に新しい赤い涎掛けが奉納されるとのこと。前段両端には猿の地蔵尊(?) が安置されているが、どのような意味があるのか?魔除けの象徴「神猿 (まさる) さん」?
 時代の流れを感じさせるお地蔵さんを見ていると、人の世の無常が心に迫ってくる。

本堂

 「千体地蔵」すぐ横の中門をくぐると、さほど広くはないお庭の正面に瓦葺屋根の本堂がある。本堂前には「太元尊明王」と刻まれた石の灯籠、さらにその横には木製の古い灯籠が立つが、こちらは江戸時代の再建時のものなのだろうか。本堂西側には玄関車寄を持つ客殿があり、本堂とは渡り廊下で繋がっている。

床の間正面

【客 殿】
 今回公開の注目のひとつが、客殿上段之間の若き狩野探幽筆とされる水墨障壁画。床、付書院を備えた8畳の上段之間のうち、障壁画は4面が残っている (床の間正面の壁貼付1面・床両脇の壁貼付2面・床の間左方に隣接する壁貼付1面) 。
 広い床の間の壁には、左上方に遠山が描かれ、その下方の岩山には楼閣と松。楼閣前では琴を弾く高士とその楽に耳を傾ける人達がいる。右下には湖 (川?) を行く小舟が2隻。
 床の間の左手壁には、左上方の遠山から順に中央の中景、そして右下に向かうにつれて近景が描かれ、囲碁を楽しむ高士達の姿が見える。川には舟を操る人の姿。画題として好まれた「琴棋書画図」の一部なのだろうか。

床の間の左手壁

 この障壁画に最初に目を留めたのは、京都市文化財保護課に就職したばかりの小嵜善通 (おざき よしゆき) 氏 (現 成安造形大学 学長) だったようだ。時は昭和58年 (1983年) 頃という。その後の現地調査や文献調査により、『義演准后日記』元和6年10月25日条に「理性院為見舞罷向了。狩野采女座敷絵書之召出盃賜之」とあるのが確認された。狩野采女とは当時18歳の狩野探幽 (1602-74) であり、この記述から障壁画制作に探幽が関わっていたことが立証されたとのこと。
 さらに小嵜氏は、理性院の障壁画に関して構図、筆さばきや紙継ぎ幅の違いなどから、元和4年8月30日に没した父 孝信がやり残した仕事を、2年後に探幽が仕上げたのではないかと考証している。

なおこの障壁画は、糊離れや亀裂、虫の食害が進んでいて壁から剥がれ落ちる危険性が生じていたため、2017年度から4年をかけて修復が行われた。今回の特別公開は、修復が完了したのに合わせて行われたのだろう。今回は撮影が許可されており、貴重な画像を撮ることができた。

ところで小嵜善通氏によると、醍醐寺第80代座主で東寺長者にも任じられた義演 (兄の二条昭実は正親町天皇の関白であった) と狩野家は、系図上でのつながりがあったらしく、理性院の障壁画が描かれた当時、両者はそれなりに親しい関係にあったことが想像される。その後の江戸狩野の活躍を考えた時、理性院障壁画は安土・桃山から江戸時代にかけての絵画史上、なかなか興味ある作品と言えるものかもしれない。

客殿と本堂の間のお庭

【本 堂】
 客殿から渡り廊下でつながる本堂は、外陣、内陣、内々陣により構成されている。内陣中央には護摩壇があり、その前の立派な唐破風屋根の厨子に江戸期作の秘仏本尊 「太元帥明王」 が安置されているようだ。十八面三十六臂像 (重要文化財) の本尊は、80年に1度だけ開帳され、次回は2065年とのこと。「太元帥明王」は国土を鎮護し敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮する夜叉神とされ、平安前期に小栗栖・法琳寺の常暁によって唐より伝えられたという。
 内々陣の向かって右側には、平安時代後期のカヤの一木造の 「不動明王坐像」。憤怒の相貌は意外にも穏やかで、体つきも柔らかさを感じさせる彫像。寄木造の技法が定着していた時代に、この像が丸彫

聖天堂

りに近い構造であることや、豊かな量感表現などが評価されて1989年に重要文化財となっている。両脇侍は矜羯羅童子と勢託迦童子だが、こちらも柔らかな表情をして愛らしい。左側には鎌倉時代作の 「毘沙門天立像」 を安置。毘沙門天立像は宝棒と宝塔を両手に持つ像容が一般的だが、こちらの像は宝塔が足下に置かれていて珍しい。
 堂内全体が薄暗く内々陣には入れないので、仏像の細部まで見られなかったのは残念。

【聖天堂】
 客殿の右手奥に茅葺き屋根の趣ある建物があり、「お茶室かな?」と思いつつも非公開のため拝見できなかった。後に調べてみると「太元帥明王」同様に秘仏とされることの多い 「聖天像 (大聖歓喜天) 」 が祀られる「聖天堂」だった。江戸期の銅製の像らしいが、秘仏なので普段は千手観音坐像がお前立ち (?) として安置されているようだ。

【境 内】
 客殿と本堂の渡り廊下の北側にこじんまりとしたお庭があるが、訪れた時には椿が苔庭に散り敷いてなかなかの風情。本堂東側には小さなお社や十三重塔、大きな岩などがあり、また中門を入ってすぐの東奥には、石段を上がった一段と高い場所に宝物庫のような立派な建物。中門横の藤棚や本堂横の白木蓮など、季節毎の花を楽しめそうな静かなお寺だ。それだけに、境内を紹介する案内書があればもっと興味深く拝観できただろうとも思う。

  屋根の鬼 見つめる先は 白木蓮  (畦の花)

 

<参考資料>
・  伏見区あれこれ:ふしみ昔紀行 51  『理性院の千体地蔵』 平成18年11月
・  『醍醐寺理性院障壁画と狩野探幽』  京都市文化観光資源保護財団ホームページ 「学ぶ」  (「特集 京都の初期障壁画」 4)
・  住友財団 文化財維持・修復事業助成   2019年度 文化財維持・修復事業助成  助成対象
・  「文化遺産データベース」  (文化遺産オンライン)
・  『醍醐寺彫刻所在確認調査について』  副島 弘道 著  (『美学・美術史学科報』 22 跡見学園女子大学, 1994)