八坂神社 本殿裏特別公開

京都・寺社

西楼門

 令和2 (2020) 年に国宝指定された 「八坂神社」 (祇園さん) 本殿の 「後戸」 「本殿裏」 が、11月2日から12日まで特別公開された。常に観光客が多いので足を運ぶこともあまりない神社だが、なかなか無い機会と思い参詣することにした。
 午前10時過ぎ八坂神社に到着。たまたま「刃物神社祭」の日だったこともあってか、西楼門を入った境内では屋台が並び、平日でも多くの観光客で賑わっている。ただ特別公開に訪れる人はそれほど多くはなく、スムーズに拝観できた。解説付きで最初に案内されたのは 「後戸」 本殿北側の「又庇」にあたる場所だ。

「神仏習合」の場であった八坂神社
 八坂神社の創建は平安京遷都よりも古いとされ、創祀については諸説あるようだが、社伝では以下の二つが挙げられている。
  ① 斉明天皇2 (656) 年に高麗より来朝した伊利之 (いりし) が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊 (すさのをのみこと) を奉斎したことに始まる
  ② 貞観18 (876) 年に南都 (興福寺) の僧・円如が堂宇を建立。また同じ年に天神 (祇園神) が東山の麓「祇園林」に降り立ったことに始まる。

本殿

 これよりわかるのは、もともとは神仏習合の聖地 であったということ。古くは興福寺の末寺であり、10世紀後半には延暦寺の末寺になったとも。当時は「祇園天神堂」とともに薬師像などを安置する堂宇や鐘楼もあり、社僧が奉仕していたという。「祇園感神院」「祗園寺」または「祗園天神社」などとかつては呼ばれていた。
 しかし明治政府の神仏分離政策を受けて神仏習合色は廃され、仏像などは他の寺院に遷されて社名も 「八坂神社」 と変わった。

 

本殿東から見た後戸の部分

「後戸(うしろど)」とは?
 室町前期の『八坂神社本殿指図』には、中内陣の後方、北側又庇の部分に 「後戸」 と書き込まれている。『祇園社記』によれば、供花供水を行うための閼伽棚が備えられ、仏教での夏安居に関わる施設であったことから「夏堂」あるいは「花堂」と呼ばれていた。またそれ以外にも仏神事の後の饗宴の場や会議の場としても使用されていたようだ。しかし明治以降、閼伽棚は不要となり、神職の方の説明では「後戸」は国宝に指定されるまでは物置のような状態であったとのこと。

正面の石鳥居


 今回は「後戸」の閼伽棚が残る西側半分が公開されたが、そこには円山応挙の「番鶏図」の衝立も置かれていた。鶏があまりにも本物そっくりに描かれていたため、逃げ出さないようにと金網で覆われていたという有名な逸話が残る作品。また神職の方からは、ある時この絵を見た農夫が「雌雄の鶏の羽の色が夏羽と冬羽になっているのはおかしい」と指摘し、それを聞いた応挙が急ぎ修正したという別の逸話も披露された。「さすがの応挙も鶏に関しては若冲に及ばなかったか」と思いつつその衝立をしばし拝見。背景は描かれず、ただ餌を啄む雄鶏と雌鶏だけが画面右下に描かれている構図は、とてものどかな印象を与える。

「拝観の手引」の表紙を飾る「冕冠」

 さて 「後戸」 の次に案内されたのは 「本殿裏」 こと外陣。素戔嗚尊 (すさのおのみこと) をはじめとした三柱の祭神を祀る内々陣の裏手にあたる。こちらには江戸時代末まで神社正面の石鳥居に掲げられていた「感神院」の大きな扁額や、一部が破損してしまった古い「十一面観音立像」などが保管されていた。八坂神社が「寺」でもあったことを語る遺物たち。長く信仰の対象であったであろうと察せられる毀れた素朴な様子の観音像が悲しげに見えた。

 最後は社務所南側にある 「常磐殿 (ときわでん) 」 で神宝類を拝見。承応3 (1654) 年に本殿が再建された際に、江戸幕府から多くの神宝が奉納されたということで、今回はその一部が公開された。中でも一際目を引いたのが、二つの黄金の冠、「冕冠 (べんかん) 」「礼冠 (らいかん) 」。本来は天子や親王らがかぶる冠が祭神のために作られたようだ。特に四角形の「冕冠」は、中央に日輪を立てて周囲には白や水色のガラス玉を連ねた飾りが何本も垂れ、さらに平安京の四方の方角を司る「四神」、玄武・青龍・朱雀・白虎の装飾が四面各々に施されたなんとも絢爛豪華な逸品。他にも蒔絵と螺鈿を施した矢を入れる武具「靭 (ゆぎ)」や、祭神の履物「草鞋 (そうかい)」などが展示。

 八坂神社が神仏習合の聖地であったという事実に触れることができた貴重な機会だった。

      丹の鳥居  先に広がる  東山  色づく秋に 光も踊る  (畦の花)

<参考資料>
 ・ 八坂神社 ホームページ
 ・ 『京都非公開文化財特別公開拝観の手引』  第59回 京都古文化保存協会, 2023
 ・ 『八坂神社の夏堂及び神子通夜所』  黒田 龍二 著 (日本建築学会計画系論文報告集 第353号, 1985, 7)