京博 特別展「東福寺」

京あれこれ

京博 平成知新館

 紅葉の季節 (2023/10/7〜12/3) に合わせて開催された京都国立博物館の「東福寺」展。普段はなかなか拝見できない吉山明兆の五百羅漢図や観音図が展示されるというので、久しぶりに訪れる。

 展示は5章の構成。
 第1章「東福寺の創建と円爾」  東福寺創建を願った九條道家、開山の円爾 (えんに 聖一国師)や円爾の禅宗の師 無準師範の画像などを中心に展示。
 第2章「聖一派の形成と展開」  禅宗のみならず密教をもよく学び中国にも渡った円爾の後継者達が残したもので構成。展覧会初出品という東福寺第15代住職・虎関師錬の書「虎 一大字」は、書というよりは絵画。禅問答をする虎?とてもモダンな書で、見ていて飽きない。また同じ虎関師錬等が著した仏教史書『元亨釈書 (げんこうしゃくしょ)』は、日本思想史など歴史の分野からも注目されている貴重な史料。

 第3章「伝説の絵仏師・明兆」
 まず、吉山明兆 (きっさん みんちょう, 1352-1431)とは?
 淡路島生まれ。淡路の安国寺で臨済宗の高僧であった 大道一以 (だいどう いちい, 1292-1370) の下で禅や画法を学び、その後大道に従って東福寺に入る。同寺では寺の管理や仏殿の荘厳などを行う「殿司 (でんす) 職」を務める傍ら、絵を描き続ける。周囲からは禅僧として高位に就くことも期待されたが、画僧であることを選択した明兆は、初の寺院専属の絵仏師となった。
 作風は、北宋や元の仏画に学びながらも、後の水墨画の巨匠 雪舟にも影響を与えたと言われるほどの水墨の技も兼ね備えた独自の魅力を持つ。僧としては終生「殿司」の位にあったので「兆殿司」と称された。

特別展リーフレットより

 何といってもここでの見所は、明兆が永徳3 (1383) 年から至徳3 (1386) 年にかけて制作した記念碑的大作「五百羅漢図」。全50幅すべてを見ることはもちろんできないが、明兆の画を十分に味わうことはできた。極彩色による画像は、登場する羅漢が様々な国の出身であることや個性豊かな風貌であることを巧みに描いている。また生き生きと描かれた表情は各々の性格を表現しているようで、「ここではどんな会話がなされているのだろう?」と想像が広がり引き込まれてしまう。古さを感じさせない魅力的な画。また縦3mを超えるという大作「白衣観音図」は、岩窟の中央磐座に美しい白衣観音が静かに座し、下方左では善財童子、右では龍が観音を見上げている。湧き上がる雲と荒波の動きある背景が、白衣観音の周りに漂う静謐さをより一層引き立てているように感じる。「達磨・蝦蟇鉄拐図 (だるま・がまてっかいず)」は、中央に「達磨」、左右に「蝦蟇」「鉄拐」の3幅で構成。「達磨」図は、シンメトリックな画面構成で淡彩が効果的。「蝦蟇・鉄拐」図は中国の画家 顔輝 (がんき) の作品の模写のようだが、3幅が揃うことで仏画と思えないような明るくユーモラスな雰囲気を醸し出している。

 第4章「禅宗文化と海外交流」
 開山 円爾が中国より将来した仏教に関する文物を始め、その後の彼の弟子達 “聖一派” の禅僧がもたらしたものが展示されている。経本も多いが、国宝の『太平御覧』(12~13世紀) は、北宋2代皇帝太宗の勅命で編纂された百科事典。日本文化がいかに中国文化から多くのものを吸収し、採り入れていたかがわかる。また、明時代の十六羅漢図や元時代の釈迦三尊図などは、日本人が描いたものとはまた違った味わいがあり興味深かった。

 

 第5章「巨大伽藍と仏教彫刻」
 創建当初の東福寺は、宋風の七堂伽藍が堂々と並び建つ大寺院で、仏殿には像高約15mにも達する「釈迦如来坐像」が安置されていたことはよく知られている。しかし14世紀前半に全焼し、15世紀に再建するも、明治14 (1881) 年には再び火災に遭い仏殿・法堂など焼失。明治での火災で旧本尊も焼失し、辛うじて残った左の仏手のみが、今も大切に保存されている。
 今回の展覧会では、2m以上もあるこの巨大な仏手、さらには同じく焼け残った蓮弁や光背化仏が展示され、フォトスポットとして写真撮影が許可されている。彫像としては鎌倉時代作の迦葉・阿難立像や金剛力士立像、地蔵菩薩坐像など秀逸で見応えあり。また修復後初公開という多聞天立像は、邪鬼を踏みつける体躯の力強さや鋭く睨みつける眼差しなど、鎌倉時代の作風をよく表している。彩色もよく残り思わず見惚れてしまう像。

特別展リーフレットより

 第3章では明兆自画像の模本 (江戸時代の絵師 住吉広行筆) が展示されていたが、この自画像には次のような逸話が残る。
 明兆が五百羅漢図を制作中のこと。淡路国に残る老いた母親が重い病に臥し、一目息子に会いたいと願った。しかし明兆は仏画制作を途中で止めることはできないと思い、自画像を描いてそれを母親に贈り慰めたという。
 繕われた古い衲衣姿の明兆からは、朴訥で生真面目な人柄が察せられる。心で母親に詫びながらこの自画像を描いたのかもしれない、そう思うとジーンと来るものがある。また、明兆と言えば東福寺と桜にまつわる逸話も有名だ。
 室町時代、禅文化に傾倒していた第4代将軍 足利義持は、明兆の描いた大涅槃図に感銘を受けて彼の望みを叶えてやろうと申し出た。その時、明兆はこう答えたという。「財貨はもとより官爵も願うところではありません。この身には一衣一鉢で足ります。今ひとつあるのは、近頃東福寺の僧が桜樹を好んで植えているのですが、将来この精舎が遊宴の場になってしまうのではと憂えております。願わくは、将軍の命により桜樹を伐っていただけますことを。」
 当時、東福寺境内の西南には大きな座禅堂があり、多くの修行僧が寝起していたという。明兆は桜の季節の賑やかさが、その修行僧達の妨げになってはいけないと深く憂えてそう願い出たのだろう。義持は明兆の申し出に深く感心し、東福寺の桜の木をことごとく伐採した。それで現在も東福寺には桜が少ないという話。
 しかし、現在の東福寺は京都でも屈指の紅葉の名所となり、紅葉シーズンともなれば観光客が押し寄せ大変な賑わいとなる。こんな光景をもし明兆が見ることがあれば、彼は何と言うだろうか?

<参考資料>
・ 京都国立博物館 特別展「東福寺」website
・ 京都国立博物館 特別展「東福寺」はじめてガイド      ・東福寺 website
・ 『本朝画史』 狩野永納編 ; 笠井昌昭, 佐々木進, 竹居明男訳注 同朋舎出版, 1985.6