龍安寺 (右京区龍安寺御陵下町)

京都・寺社

嵐電「龍安寺駅」から北に7, 8分ほど歩くと「大雲山龍安寺」の大きな石標と門が見えてくる。「大雲山龍安寺」石標10メートル程先には「きぬかけの路」。横断歩道を渡ってさらに奥へと進むと左手に山門。周りは樹々に囲まれて、ひたひたと静かさに包まれていくような気持ちになる。「龍安寺垣」のある緩い階段の先には、禅宗寺院らしい木組みと白壁の簡素でありつつも重厚な庫裏が姿を見せる。

臨済宗妙心寺派の境外塔頭寺院である龍安寺が建立されたのは宝徳2年(1450)。平安時代末期にこの地を山荘としていた徳大寺家よりその山荘を譲り受けた足利将軍管領職・細川勝元が、妙心寺第五世・義天玄承(玄詔)を開山として創建。当初の境内地は現在よりもはるかに広く、嵐電の線路付近にまで及んでいたらしい。しかし応仁の乱で焼失し、勝元の息子・政元により明応8年(1499)には方丈が上棟される。有名な石庭もこの頃に築造されたらしい。安土・桃山時代には織田信長、豊臣秀吉などが寺領を寄進し、『都名所図会』(安永9年刊行)にもオシドリの名所の鏡容池を中心とする池泉回遊式庭園として紹介されるなど中興を果たした。だが江戸時代の寛政9年(1797)、今度は食堂より出火し、再び方丈、仏殿、開山堂などを焼失。現在の方丈は、塔頭・西源院(せいげんいん)の方丈を移築したもの。1994年には「古都京都の文化財」の一つとして、ユネスコの世界遺産に登録された。

【石 庭】
龍安寺 石庭「日本美」を代表する方丈の石庭。その前に座りまず最初に思ったのは「意外に小さい」。しかしじっとただ眺めていると、庭の印象が変化していく。白砂を敷き詰めた中に悠然と時の流れを刻むかのように置かれた大小15個の石。まさにシンプル!禅の「空」の境地へと誘われるような不思議な魅力を持つ庭で、いつしかその広さまでも変化しているように感じられる。また庭を囲む菜種油を混ぜ込んだ「油土塀」が、白い石庭と絶妙のコントラストを形成している。四季の移ろいや天候の具合、そして観る者の心の状態によって見え方が変わってくるお庭なのだろう。

【蹲踞(つくばい)と侘助椿】
「知足」の蹲踞 侘助椿方丈の北東の庭には、徳川光圀が寄進したと伝わる石造銭形の蹲踞の実物大模型が置かれている(本物は茶室「蔵六庵」西前にあって見られない)。すべての字に共通する中央の水穴を「口」と見立て、周りの四文字と合わせて「吾唯足知」(ワレタダタルコトヲシル)と読む。『遺教経』(釈迦最後の言葉)の「知足」(知足の者は 賎しと雖も富めり 不知足の者は 富めりと雖も賎し)の心を図案化したもので、仏教の真髄であり、また茶道の精神にも通じているとのこと。そしてその蹲踞のすぐ近くには、千利休を始めとする茶人に愛され、豊臣秀吉が賞賛したという侘助椿がある。

【鏡容池】鏡容池
古くは潅漑用の溜池だったものが円融天皇の建立した円融寺の池となり、その後鎌倉時代には徳大寺家山荘の池泉庭園として改修されていった池。明治初期の頃までは、オシドリの名所として、石庭よりも有名な観光名所だったらしい。とても広い池で、その中に三つの島がある。散策路には桜やモミジなどの樹々が繁茂し、池にはサギやカモなどの鳥が羽根を休めにやってくる。睡蓮や花ショウブも美しい。