『方丈記』

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  行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず
     よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし
       世の中にある人と栖と、またかくの如し

  これは『枕草子』『徒然草』とともに三大随筆のひとつに挙げられる鴨長明の『方丈記』の冒頭部分。誰しも記憶の片隅に残っている一節ではないだろうか。新型コロナウィルス感染が拡大する中で、改めて『方丈記』を読み直し「無常」について考えてみようと思った。
  鴨長明は、平安時代末期に下鴨神社の正禰宜の次男として誕生。将来は神職としての出世を望むが、十代後半に父親を亡くし、下鴨神社の河合社(ただすのやしろ)の禰宜職もライバルの横槍で叶わぬ夢となってしまった。その後は父方の祖母の家を継承するが、三十代になって親戚とも絶縁。その頃より転居生活が始まったようだ。この時代、歌人として宮廷歌壇にも出仕するが、五十歳で出家・遁世。出家後は5年ばかり大原に暮らすも、やがて日野の外山に草庵を移し、建暦2年(1212年)五十八歳の時に『方丈記』を記す。
  『方丈記』序の部分では、人の一生もその栖も絶えることなく変遷を続けると語り、彼が実際に体験をした「五大災厄」を生々しく描いてみせる。「安元の大火」から「治承の辻風」、「福原遷都」、「養和の大飢饉」そして「元暦の大地震」と、長明は街に出てはその有様を見聞し克明に記している。「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者の類、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香、世界に満ち満ちて、変りゆく形・有様、目も当てられぬ事多かり。」 のように。こうした都の描写から、慶滋保胤の『池亭記』に大きく影響を受けていると指摘されることも多いが、『方丈記』の真髄は日野に移り住んでからの後半部分にあると私には思える。
  神職を目指しながらも挫折し、謂わば”プータロー"の日々を過ごし、そして仏道へ。出家して引っ越した大原の里での暮らしも長くは続かなかった。当時の大原は、俗化した仏教界とは一線を画し、ひたすら修行に励む僧侶の隠棲の里だったようで、俗世にまだまだ未練たっぷりの長明にとっては些か居心地の悪い所だったのかもしれない。
  しかし日野の山奥での草庵に一人住まうようになってから、長明の思惟は次第に深まりを見せていったようだ。 「おほかた、この所に住み始めし時は、あからさまと思ひしかども、今既に、五年を経たり。仮の庵も、やや故郷になりて…」 とあるように、煩わしい人付き合いから離れ、貧しくも一人気ままな暮らしが彼の性分には合っていたのだろう。だが時には都の噂が気になり、またあちこちの寺や山に赴いたりと世間から全く隔絶した生活をしている訳でもない。そして最後は 「…世を遁れて、山林に交はるは、心を修めて、道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖にて、心は濁りに染めり。栖は、即ち、浄名居士の跡を汚せりといへども、保つところは、僅かに、周梨槃特が行ひにだに及ばず。」 と自身を深く洞察した述懐で締めくくっている。どうしようも無く中途半端でありながらも自分に正直であり続けた「鴨長明」、あくまでも人間くさく生きたその生き様に、私は魅力を感じる。
 『バカの壁』で一躍有名になった解剖学者の養老孟司氏は、『方丈記』の冒頭部分を折に触れて引用される。「…川がある、それは情報だから同じだけど、川を構成している水は見るたびに変わっているじゃないか。…人間も世界もまったく同じで、万物流転である。」 (『バカの壁』p.56) 新型コロナの感染が収束すれば、コロナ禍以前と同じ生活が戻るかのように語る人も多いが、それは違うのではないか。東日本大震災の被災地が決して震災前に戻ることはないのと同様に。「諸行無常」とは傲る人類への戒めか…。

*『方丈記』安良岡康作全訳注 講談社, 1980, 2 (講談社学術文庫 459)
*『方丈記 徒然草』佐竹昭広, 久保田淳校注 岩波書店, 1989, 1 (新日本古典文学大系 39)
*『バカの壁』養老孟司著 新潮社, 2003, 4 (新潮新書 003)