長慶天皇 嵯峨東陵 (右京区嵯峨天竜寺角倉町)

陵墓・墓所

 京福電鉄「嵐電嵯峨」駅を下車して南に2, 3分歩くと右手に木々の生い茂る一角が見えてくる。周りは静かな住宅街で一瞬公園かと思うが、入り口に「長慶天皇陵参道」の石標がある。
 砂利の敷き詰められた参道を西に向かって行くと、桃山陵墓監区事務所の建物の手前に宮内庁の案内「長慶天皇 嵯峨東陵 (ちょうけいてんのう さがのひがしのみささぎ) 長慶天皇皇子 承朝王墓」がある。
 事務所の前を通って再び南に入って行くと、まず長慶天皇の陵がある。拝所の先には広い敷地があり、はるか奥に鳥居が見える。すぐ隣には承朝皇子の墓。こちらはそれほど広くはないが、やはり鳥居はかなり奥にある。どちらも豊かな緑に囲まれている。
 陵墓のすぐ南側には「安倍晴明公嵯峨墓所」と「角倉稲荷神社」がある。

長慶天皇 嵯峨東陵【長慶天皇 (1343-94)
 第98代天皇 (南朝第3代天皇) で名は寛成 (ゆたなり)。後村上天皇の第一皇子で、母は嘉喜門院 (関白二条師基の猶子)とされる。
 正平23/応安1(1368)年、後村上天皇没後、摂津の住吉行宮 (あんぐう) で践祚。当時の南朝は衰退の時期にあり、住吉、吉野、栄山寺などの行宮(あんぐう)に移住。弘和3 (1383) 年頃に弟の東宮である後亀山天皇に譲位したとされる。譲位後数年、院政を行った後に出家。
 長慶天皇の在位・非在位については、江戸時代以来多くの異論が唱えられ、徳川光圀 (『大日本史』) は在位説を、新井白石や塙保己一は非在位説を唱えた。しかし大正年間に新出史料による研究が行われ、宮内省による調査を経て、大正15 (1926) 年10月21日「皇統加列の詔書」が発布されて第98代天皇として公認された。
 出家後の晩年の状況を伝える史料が無いため、天皇の別称「慶寿院」が皇子 海門承朝の止住した天龍寺の塔頭 慶寿院に因むことなどから、御陵は昭和19 (1944) 年2月11日慶寿院址に定められた。

長慶天皇皇子 承朝王墓【承朝王 (1374-1443)
 長慶天皇の皇子。1392年の南北朝合一後に出家して海門承朝 (かいもんじょうちょう) と号し、臨済宗夢窓派に属す。空谷明応 (常光国師) に師事して宝幢寺住持となり、相国寺30世・南禅寺133世など歴任。父である長慶天皇の菩提を弔うために嵯峨に「慶寿院 (景寿院)」(天龍寺塔頭) を開創し、その跡地が昭和になって「長慶天皇 嵯峨東陵」として治定された。承朝王の葬地も不詳だが、長慶天皇陵に付随してその隣に治定墓が築かれた。

<参考資料>
・宮内庁「天皇陵」website
・宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム『陵墓資料 (勘註・決定書) 長慶天皇皇子 承朝王墓決定書』宮内公文書館
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』      ・コトバンク