京都の六斎念仏

京あれこれ

(1)「六斎日」とは
 「六斎日」 の「斎」とは、布薩 (ふさつ, 巴: Uposatha[ウポーサタ]、梵: Poṣadha [ポーシャダ]、烏晡沙他とも)のことで、原意は「火もしくは神に近住する」=「神の降臨」を意味し、バラモン教での新月祭と満月祭での前日に断食をして誓戒を持する宗教儀式が仏教に取り入れられたものという。
 「布薩」では半月に一度、定められた地域 (結界) にいる比丘 (出家僧) 達が集まって、「波羅提木叉 (はらだいもくしゃ)」という戒律の条文を誦し自省する。一方在俗信者は、月に6日 (8日, 14日, 15日, 23日, 29日, 30日) の「布薩」には、一日一夜出家僧と同じ生活をし、八戒を守って教えを聞き、出家に食事を供養する。これが 「六歳日」 となった。また8日と23日には四天王の使者、14日と29日には太子、15日と30日には四天王自らが世間に下りて人の善悪を観察する (『起世経』,『四天王経』等) などの説に基づき、人々は「斎日」には精進潔斎し、懺悔 (悔過) や祈禱の法要等を行い、日待、月待等の行事も行われるようになった。

嵯峨野六斎念仏保存会「結願」

(2)仏教の庶民への浸透と「六斎講」
 奈良・平安時代初期、仏教は上流層の貴族を中心に信仰されていた。しかし、平安時代末期から鎌倉時代にかけて武士が台頭してくる時代になると、度々の戦や飢饉などで苦しむ庶民の間にも次第に仏教信仰が浸透していった。平安時代の空也から鎌倉時代の一遍へとつながる市井にあって仏教を広める「念仏僧」の出現は、庶民の祖先崇拝思想や他界観念と結びつき、「六歳日」の認識も生まれていったのではないだろうか。
 南北朝時代から室町時代になると、浄土信仰の高まりとともに念仏系の聖 (ひじり) 達の指導のもと、村々には「六斎日」のための講中が次第に形成されていく。現存最古に属すとされる「六斎念仏供養」板碑が、奈良県五條市の西福寺にある。「延徳二年 (1490) 九月十五日」の年暦が刻まれており、戦国時代には近畿地方一円で広く「六斎講」が行われていたようだ。

(3)京都の六斎念仏 : 二つの系統
 文献上で最初に「六斎念仏」が言及されているのは、戦国時代の公家 山科言継の日記『言継卿記 (ときつぐきょうき)』で、永禄十 (1567) 年二月十日の条という。そこには「室町幕府14代将軍 足利義輝の三回忌が真如堂で行われた折、京都を中心に摂津、近江坂本の村々から多くの六斎念仏衆が集まり、施餓鬼供養をした」と書かれ、鉦や太鼓が叩かれていたこともわかる。そして当時の京都で「六斎念仏」講中を束ねていたのが、現在左京区田中にある光福寺 (干菜寺) ということらしい。
 
<干菜寺と「六斎念仏」>
 浄土宗知恩院派の「干菜山 (ほしなざん) 斎教院安養殿光福寺」は、寛元年間 (1243-47年) に道空上人が西山安養谷 (あんようがたに)(現 長岡京市) に建立した「斎教院」が始まりと伝えられる。
 道空は臨済宗の円爾弁円の弟子であったが、師命により念仏門に転じ、帝釈天の示現を得て文永元 (1264) 年に「六斎念仏を」開創したとされる (光福寺所蔵『浄土常修六斎念仏興起』による)。翌年には亀山天皇に六斎念仏勤行の勅命を受け、正和2 (1313) 年には花園天皇から「常行六斎念仏」の号を賜る。
 天正10 (1582) 年、7世 月空宗心 (げっくうそうしん) により現在地に移される。文禄2 (1593) 年に豊臣秀吉が鷹狩の途中で当寺に立ち寄った際、宗心は供するご馳走もなかったので仕方なく干し菜を献じた。するとその美味しさに満足した秀吉は、「干菜山光福寺」の称号を与え、後には金銀太鼓と六斎支配の許状を与えるなどの保護をした。以降干菜寺は、専門の念仏僧による職業六斎念仏衆を結成していった。

芸能六斎

<空也堂と「芸能六斎」の誕生>
 ところで本来は自分の為に念仏を唱えるのが目的であった「六斎念仏」だが、室町末期頃から次第に「六斎日」だけでなく死者の供養にも講中が出かけるようになった。さらに江戸時代中期になると、農村の経済力の高まりとともに様々な芸能が庶民の生活に浸透し始め、村々の「六斎念仏」講中にも影響を与えるようになった。
 江戸時代後期、若者達を中心に次々と新しい芸能を「六斎念仏」に取り入れて互いに競い合うようになると、「六斎念仏」を仏教の宗教行為と標榜する干菜寺は、こうした風潮を戒めて次第に鑑札を出さなくなった。こうして干菜寺から離れていった講中を受け入れたのが「空也堂」という。

 現在中京区蛸薬師通油小路西入にある天台宗「紫雲山光勝寺極楽院」(空也堂) は、天慶年間 (938-947) に空也に深く帰依した平定盛が空也を開山とし、自身は二世となって創建したとされる。当初は三条櫛笥 (現在の三条大宮の西) にあったが、江戸初期の寛永年間に現在地に再建された。
 空也は平安中期の念仏僧で醍醐天皇の皇子とも言われるが、口称念仏を民間に広めて「市聖 (いちひじり)」とも呼ばれた。原本は江戸初期の制作ではないかとされる 『空也上人絵詞伝』 では、「六斎念仏」が松尾明神と空也との出会いに始まったことを以下のように描いている。

「十月の寒い日。空也が大宮大路で「慈悲忍辱」の衣が破れて寒そうな松尾明神と出会い、自分の法華の衣を与えると、明神は大いに喜び松尾大社へと帰っていった。
 後日、空也が松尾大社に参詣して念仏を唱えると、明神が出現して空也を念仏の師とする契約をした。空也と共に念仏をした明神は大いに悦び、鰐口と太鼓を布施として与え「末世の衆生利益の為に此太鼓をたゝき念仏すゝめ玉ふへし」と述べて空也の念仏守護神となることを誓う。
 歓喜限りない空也は、それ以降至る所で斎日には太鼓と鉦を叩いて人々に念仏を唱へることを勧め、往生する人のある時は念仏を唱えて弔った。以降「六斎念仏」と称されるようになり、毎年松尾大社では氏子が集って「六斎念仏」を勧めるようになった。」

 「空也堂」は 『空也上人絵詞伝』 を根拠として各講中に「六斎念仏弘通の免状」を出し、「芸能六斎」講中は空也をその祖とするようになったと思われる。

「京の風流踊ガイドマップ」より

<現在の京都の六斎念仏>
 1983年、「京都の六斎念仏」は「重要無形民俗文化財」に指定。当時は15団体が活動していたが、「空也念仏郡保存会」が後継者不足により活動休止となったため、現在は14団体となる。干菜寺系「念仏六斎」に属すのが4団体、空也堂系「芸能六斎」に属すのは10団体となっている。
 [念仏六斎]
 円覚寺六斎念仏保存会 … 西方寺檀家により伝承、現在は『発願』のみ伝わり導師が念仏を唱えつつ鉦を叩き、それに太鼓が加わる [8月16・24日 円覚寺]
 上鳥羽橋上鉦講中 … 4つの曲目が伝承、『焼香太鼓』は天皇家の大喪の際にも行われた由緒ある曲 [8月22日 浄禅寺 (鳥羽地蔵) にて六地蔵めぐり奉納]
 西方寺六斎念仏保存会 … 船形万燈籠の送り火の後、西方寺檀家により境内で念仏と鉦に合わせて太鼓を叩く『いっさん』が行われる [8月16日 西方寺にて送り火奉納]
 六波羅蜜寺空也踊躍念仏保存会 … 六波羅蜜寺に伝承される「空也踊躍念仏」 [12月13日-30日 六波羅蜜寺にて踊躍念仏奉納]
 [芸能六斎]
 梅津六斎保存会 … 10の曲目が伝承、『越後さらし』は烏帽子にたっつけ袴 (裁着袴) の振り手が長い白布を自由自在に操る [8月最終日曜 梅宮大社にて嵯峨天皇祭奉納]
 桂六斎念仏保存会 … 19の曲目が伝承、『娘道成寺』では白拍子が太鼓を打って手踊りを披露し、最後には鬼に変化 (へんげ) する [5月5日 下桂御霊神社にて桂女祭奉納・8月22日 地蔵寺 (桂地蔵) にて六地蔵めぐり奉納]
 吉祥院六斎保存会 … 16の曲目が伝承、『岩見重太郎』は伝説の剣豪と妖怪ヒヒとの立ち回りが繰り広げられる [4月25日 吉祥院天満宮にて春季大祭奉納・8月25日 吉祥院天満宮にて夏季大祭奉納]
 久世六斎保存会 … 16の曲目が伝承、『やぐら』は熟練の技を要する難曲 [8月31日 蔵王堂光福寺にて八朔祭法楽会奉納]
 小山郷六斎保存会 … 13の曲目が伝承、『猿まわし』では猿まわし師の唄に合わせて夫婦の猿がじゃれ合う様子がユーモラスに演じられる [8月18日 上御霊神社にて例大祭奉納・8月22日 上善寺 (鞍馬口地蔵) にて六地蔵めぐり奉納]
 西院六斎念仏保存会 … 9の曲目が伝承、『獅子舞』では「獅子太鼓」で呼び出された獅子が土蜘蛛と立ち回りを繰り広げる [8月22日 西院高山寺にて地蔵盆奉納]
 嵯峨野六斎念仏保存会 … 17の曲目が伝承、『越後獅子』は角兵衛獅子に扮した4人が置き太鼓と手持ちの太鼓を打ちながら踊る [8月23日 阿弥陀寺 (有栖川) にて地蔵盆奉納・9月第1日曜 松尾大社にて八朔祭奉納]
 千本六斎会 … 14の曲目が伝承、『祇園囃子』の「雀踊り」では編笠姿の奴が手踊りと太鼓の曲打ちを披露 [8月14日 千本ゑんま堂 (引接寺) にて盂蘭盆奉納]
 中堂寺六斎会 … 16の曲目が伝承、狂言『橋弁慶』は面と衣装をつけて牛若丸と弁慶の出会いを無言劇で演じる [4月29日 伏見稲荷大社御旅所にて氏子祭宵宮奉納・8月16日 壬生寺にて精霊送り奉納]
 壬生六斎念仏講中 … 13の曲目が伝承、祇園祭の綾傘鉾では「棒振り」を奉仕 [8月9日  壬生寺にて精霊迎え奉納]
    *いずれも公演日は変更あり

 元々は地域の寺院の檀家が「六斎念仏」の担い手であった所が多いようだが、時代の変化と共に「保存会」として技の継承のため広く入会を認めるようになり、現在では女性の活躍する地区もある。活動は地域のお盆の精霊迎えとして行われる「棚経」や地蔵盆での奉納など、芸能化しつつも宗教性も保持しているようだ。
 2022年11月、日本の「風流踊」(全国41件) がユネスコ無形文化遺産に登録されたが、「京都の六斎念仏」もその一覧に記載された。伝統文化を次世代へと継承していくことは大変なことだと思うが、これを機に若い人達の参加が増えることを願おう。

<参考資料>
・  「京都市文化観光資源保護財団 会報」 136号   講演録 『京都の六斎念仏 :念仏六斎と芸能六斎』 山路興造 (2023.3.1)
・   京都六斎念仏保存団体連合会 公式ホームページ
・  『京の風流踊ガイドマップ』 京の風流踊振興会, 2023.8.1
・  『空也堂系六斎念仏の近世的展開:「空也上人絵詞伝」を中心に』  山中崇裕 著 (佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 45号 2017.3)
・  『新纂 浄土宗大辞典』  WEB版
・  『大和の六斎念仏について : 盆行事とかかわる六斎念仏講とその変遷を中心に』  奥野義雄 著 (奈良県立民俗博物館研究紀要 第9号, 奈良県立民俗博物館,1985)
・  『六斎念仏の宗教性:現代における六斎念仏の諸相』  柿本雅美 著 (佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 第11号 2015.3)