“天神さん” の橘

総記

北野天満宮 一の鳥居

 11月も最後の週、散歩の途中で “天神さん (北野天満宮)" に立ち寄った時のこと。参道を入ると西側に見える「伴氏社」の石鳥居が、黄色の実をたくさん付けた橘に覆われていた。たわわに実る黄金色の果実を見て、「12月2日は七十二候が小雪の末候「橘始黄 たちばな はじめて きばむ」(第六十候) に入る日だった」と思い出す。

 (学名 : Citrus tachibana) は日本に自生する唯一の野生の柑橘で、最近の研究により日本産柑橘のルーツであることがわかったという。『古事記』 (中巻・垂仁天皇の条) には「垂仁天皇が多遅摩毛理 (たじまもり,『日本書紀』では田道間守と表記) を常世の国に遣わして、「登岐士玖能迦玖能木実 (ときじくのかくのこのみ, 非時香菓)」と呼ばれる不老長寿の力を持つ霊薬を持ち帰らせた」と記されている。さらに「是今橘也」(これ今の橘なり) ともある。
 古代、橘は一年を通して青々と茂り、果実も長い間枝に残ることから「繁栄」の象徴とされた。また芳香のある花や葉が親しまれ、漢方薬としても珍重されて『万葉集』には橘を詠んだ和歌が多く残る。今も寺社では橘の木を多く見かける。

伴氏社の橘

 ところで 「伴氏社」 菅原道真の母を祀る社。伴氏出身であることからこう呼ばれているが、「伴氏」は古代の豪族である元「大伴氏」のこと。飛鳥時代から奈良時代にかけては多くの公卿を輩出するも、藤原氏による他氏排斥が強まると一族から多数の処罰者を出して、徐々に勢力が衰えていった。道真の母は、菅原氏と伴氏両氏族の繁栄を願い、息子 道真の教育に熱心に努めたのではないだろうか。その母の期待に応えるように右大臣にまで上り詰めた道真だが、藤原時平の讒言により、大宰府に左遷されて窮死に追い込まれた。
 黄金色に実る 「伴氏社」 の橘を見ていると、母親の強い願いと愛情が込められているように感じる。

 ここでちょっと思考の道草
 現在御所紫宸殿の前庭には、「左近桜」「右近橘」が植えられているが、平安遷都の際には「桜」ではなく「梅」の樹だった。「梅」から「桜」に植え替えられたのは、9世紀半ば仁明天皇の時代とも10世紀半ばの村上天皇の時代とも言われているが、「梅」は菅公がこよなく愛でた木。やはり「橘」と「梅」は対が似合うような …。
 さらに… 室町中期の『下学集』に「日本四姓は源平藤橘, 是なり」とあるように、「橘氏」は奈良時代以来名門とされた。その「橘氏」は、第43代元明天皇が即位後の大嘗祭 (和銅元年, 708年) の際に、天武朝以来宮廷に仕えてきた命婦 県犬養 三千代 (あがた(の)いぬかいのみちよ) の忠誠を嘉して「橘宿禰姓」を与えたのが実質的な始まりとされている。橘諸兄 (初代橘氏長者) を始めとして「三筆」の橘逸勢や橘嘉智子 (嵯峨天皇の皇后, 檀林皇后) など歴史に名を残す人物を輩出している「橘氏」だが、やはり大伴氏同様に藤原氏による他氏排斥の対象となってしまった。
 … 橘と梅から大伴氏・橘氏・菅公そして藤原氏へと思わぬ寄り道もまた楽し

    橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝 (え) に霜降れど
          いや常葉 (とこは) の樹      (万葉集 1009)
    (天平8 (736) 年11月に葛城王 (橘諸兄) 等が橘宿禰の姓を賜った時の歌)

<参考資料>
 ・  『「左近の梅」から「左近の桜」へ』 吉海 直人 著  (「教員によるコラム」 同志社女子大学, 2020.3.30)
 ・  『はじめての万葉集』 vol.93   (「県民だより奈良」   2022年1月号 奈良県広報公聴課)
 ・  フリー百科事典  『ウィキペディア(Wikipedia)』